安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

救いは六字となって完成していても我が機がうんといってくれません。(頂いた質問)

名体不二の尊号を「疑いなく聞いて」これができないのです。
ただ今後生に踏み出すとなっても我が機は大丈夫となれません。
救いは六字となって完成していても我が機がうんといってくれません。
衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。となれません。
(略)
しかし、只今の救いを頂くまでは死ぬに死ねません。(頂いた質問)

現在、どうにもならない心に悩まれているのだと思います。
「我が機がうんといってくれません」機と仰るならば、放おっておいてもよろしいです。そこに不安があるから振り返ってしまうのでしょうが、助けるのは阿弥陀仏であって、私の機の力ではありません。
質問者は、「どうにもなれない」と言いながら、「どうにかなろう」と執着しておられるのです。本当に「どうにもなれない」ならば、どうしようもないのですから、どうにかしようとすること自体が無意味です。

我が機をどうにかしなければ聞けない南無阿弥陀仏ならば、私の「努力」「協力」が必要になってきます。もし、私の助力を必要とする南無阿弥陀仏ならば、「他力+自力=救い」になってしまいます。他力の救いではなく、自力が必要な救いになってしまいます。
「他力=他力」であって、「+自力」ならば、自力になってしまいます。

また、「我が機が大丈夫は大丈夫となる」と言うのは自分ではありません。「お前は大丈夫だ」と呼びかけられるのは、阿弥陀如来です。自分で自分に大丈夫といっても、ダメだとダメ出しをしても全く意味はありません。

阿弥陀仏が南無阿弥陀仏となって呼びかけられている心は、二河白道の譬えで善導大師が以下のように言われている通りです。

また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(教行信証信巻・大信釈引文・発遣と招喚・二河譬より・浄土真宗聖典(註釈版)P224)

<なんぢ(汝)>と私に向かって、「ただちに来たれ」としか仰っていません。「われよくなんぢを護らん」は、阿弥陀如来が「お前を護るぞ」と言われているところです。
私に言われるのは「大丈夫になれ」でも「わが機をうんといわせよ」でもありません。「ただちに来たれ」です。それ以外には仰っていません。
そのただちに来たれが、南無阿弥陀仏の声となって私に呼びかけられているのですから、それを聞いて疑いないのが信心です。我が機が大丈夫になったのが信心でもありませんし、我が機がうんといったが信心でもありません。

見つめやすいのは機だと思いますが、法を仰いでただ今の救いを聞いてください。