安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私は、(法の深信)の“さだめて往生を得と信ず”のところが、自分の方で確信できていません。確信できるだけの智慧が私にはないから、(法の深信)の方は、わからなくてもいいのでしょうか?」(しかばねさんのコメントより)

しかばね 2013/05/11 19:07
山も山さんにお尋ね致します。

私は、(法の深信)の“さだめて往生を得と信ず”のところが、自分の方で確信できていません。
確信できるだけの智慧が私にはないから、(法の深信)の方は、わからなくてもいいのでしょうか?

ちなみに私の二種深信は・・・
機の深信・・・私の方は空っぽ、お浄土に行ける種はゼロ、何をやっても間に合わないと知らされました。
法の深信・・・南無阿弥陀仏だけと知らされました。他には何もいりません。有り難いとか有り難くないとかの自分の気持ちは一切関係なしです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130510/1368187493#c1368266855

二種深信は、他力の信心をあらわされたものです。他力の信心は、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」ですから、「自分の方で確信」することとは異なります。


そこで仏願の生起本末と二種深信についてかきます。なぜ阿弥陀仏が本願をおこされたのか(生起)を聞くとは、「自力では浄土へ往けないものだから」ということです。いわゆる自力無功と疑い無いのが機の深信です。
ではどうやって私を助けようとされているのか(本末)を聞くとは、阿弥陀仏の願力のお働き一つで救うということであり、南無阿弥陀仏だけで救うと聞いて疑い無いことが機の深信*1法の深信です。


まとめますと、阿弥陀仏は「なぜ」本願を建てられ、「どうやって」私を救うのかを聞いて疑い無いのが信心です。それを善導大師は二種深信といわれました。自ら聞いて何か確信めいたものを獲得することではなく、一言で言えば南無阿弥陀仏一つでの救いであり、それ以外に私の救いはないと聞いたのが二種深信です。「確信=深信」というのは、言葉としては等式がなりたちません。

かくしん【確信】

( 名 ) スル
かたく信じて疑わないこと。また,その信念。 「彼の無実を−する」 「 −をもって言う」(大辞林 大三版)

http://goo.gl/m73Kc

「無疑心=深信」という等式は成り立ちますが、「かたく信じて疑わないこと」は、無疑ではありません。したがって、確信≠深信となります。


上記の意味で、「確信できません」というお尋ねは、あまり意味のないことです。
南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いのが信心です。

*1:2013/05/13 04:12訂正