安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

追記:「救われた」について

前回のエントリーに追記です。

阿弥陀仏に救われたとは、現生正定聚の身になることです。ですから、お尋ねは「現生正定聚の身になると、私の生活上に何か変化があるのか?」ということになるかと思います。

阿弥陀仏に救われることを、真実信心をうるともいわれ、以下のご和讃に書かれています。

(59)
真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる
 不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ(浄土和讃59・浄土真宗聖典(註釈版)P567

真実信心をうる人は、そのまま正定聚の数に入ります。正定聚不退転の位に入ると、かならず浄土往生し仏のさとりをひらくと言われています。

次に仏になる正定聚にただ今入ると言われたのが親鸞聖人です。その親鸞聖人は、正定聚に入ると、なにかものすごい菩薩のような人になるとは言われませんでした。煩悩は、死ぬまでなくなりませんし、悟りらしいものは死ぬまで開くことはありません。
現生正定聚といっても、特別な能力が身につくことではありません。現生正定聚にして下さるのも、すべて南無阿弥陀仏のお働きですから、私の側で特別なことはなにもありません。

何か変わるかという点については、本願に疑い無いという以外にはなにもありません。私の側からいう信心の姿というのは、疑い無いというだけです。

まことに知んぬ、 疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり。(教行信証信巻-三一問答-字訓釈・浄土真宗聖典(註釈版)P231

親鸞聖人が「信心」と仰るのは、信楽についてです。その信楽は、「疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく」と仰っています。それ以外に、どうこうなったことを信心(信楽)とはいわれません。

信心獲得したとか、現生正定聚といっても、私の心の上では、本願に疑い無いこと以外には何もありません。