安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「聞いたそのままが救い」「南無阿弥陀仏一つでたすかる」の「救い」「たすかる」というのは具体的にどうなることをいうのでしょうか?例えば私の生活になにか変化があるのでしょうか?(うおーんさんのコメント)

うおーんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「聞いたそのままが救い」「南無阿弥陀仏一つでたすかる」の「救い」「たすかる」というのは具体的にどうなることをいうのでしょうか?例えば私の生活になにか変化があるのでしょうか?(うおーんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20111109/1320782313#c1320788812

「救い」「たすかる」とは、具体的には「本願の通り、浄土往生する身にしていただいた」ことです。

教行信証の中から、一つ紹介します。

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。 (教行信証信巻(末)-真仏弟子釈-決釈・浄土真宗聖典(註釈版)P264

現代語はこちらを参照:http://goo.gl/eAuUV

具体的にどうなるかについて、上記のご文では

  • 臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
  • 韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。

と言われています。

「臨終一念の夕べ」とは、死ぬと同時にということです。「大般涅槃」は、仏のさとりのことです。死ぬと同時に浄土往生し仏のさとりを開くということです。
「喜・悟・信の忍」とは、三忍といわれる、喜忍、悟忍、信忍のことです。韋提希夫人と同じように、三忍を獲るのだといわれています。

浄土真宗聖典(註釈版)には、三忍についてこのように書かれています。

他力の信(無生法忍)のもつ三つの徳義。

  1. 喜忍(きにん)。歓喜のおもい。
  2. 悟忍(ごにん)。仏智を領得すること。
  3. 信忍(しんにん)。仏力を信ずる。 (浄土真宗聖典(註釈版)P264の脚注より

この三忍は、他力の信心の徳として教えられたものです。
他力の信心とは、阿弥陀仏の本願を聞いて疑い無いことですから、救われたらどうなるかということです。
喜忍は、「ただ今救うぞ」と呼びかけられる本願を聞いて疑い無いのですから、聞いて喜ぶことを言われています。
悟忍は、不思議の仏智を領解したこと、仏智が私の心に満ちていることです。
信忍は、仏力、本願力を信じていること、聞いて疑い無いことです。

仏のさとりを開くのは、生きている間のことではありませんので、生きている間に具体的にといえば、三忍の内容になります。

「私の生活に何か変化が有るのでしょうか?」については、「ただ今救うぞ」の本願を疑い無く聞いた上での心の変化は有ります。ただ、煩悩が減ったり増えたりするということはありません。病気が急に治ったりということもありません。

必ず浄土に生まれ、仏のさとりを開かせて頂くのも、そのように呼び続けて下さる南無阿弥陀仏が働いておられるからです。私に常に呼びかけ働いて下さる本願を聞いているのですから、仏恩報ずる思いから、生活上のことも以前よりは改めようという心にもなると思います。生活上の行動や考え方の習慣というのは、すぐに改まるものではありませんが、仏恩報ずる思いから段々と変わっていきます。どう変わるかは、その人その人によっていろいろです。

ただ、阿弥陀仏は私を浄土に生まれさせ仏にするために現れた仏様です。生活上の改善、変化をさせるための仏様ではありません。本願は常に、「ただ今救う」と働いておられます。