安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「一心一向」は私が起こさねばならない心なのでしょうか?(アドウチさんのコメントより)

アドウチさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

御文章のいたる所に「一心一向に弥陀をたのめ」ということが書かれてありますが
この「一心一向」は私が起こさねばならない心なのでしょうか。それとも阿弥陀仏から回向される心なのでしょうか。(アドウチさんのコメント)

結論から言いますと、阿弥陀仏から廻向される心です。

御文章では一心一向という言葉について、2帖目9通に言われています。

しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。(御文章2帖目9通・忠臣貞女・外典・浄土真宗聖典(註釈版)P1122

一心一向とは「阿弥陀仏において、二仏をならべざる心」であるといわれています。阿弥陀仏以外の、仏をたのまない心です。これは、阿弥陀仏以外の仏だけでなく、自力の行もたのまない心ですから、他力の信心のことをいわれています。

「一心」について親鸞聖人は、教行信証信巻に以下のように言われています。

信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P231

一心とは、信楽のことであり、真実信心であるといわれています。

真実信心とはどういうものか。これについて、上記の教行信証のご文の少し前に、こう書かれています。

大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。(同上P230)

阿弥陀如来の大慈悲心により廻向される心が、信楽であり、一心です。

自分で、こころを鎮めて一心になろうとしてなるこころではありません。阿弥陀仏から廻向される真実信心のことです。
御文章に「一心一向に弥陀をたのめ」とは、一心一向も、弥陀をたのむも、真実信心のことですから、真実信心になりなさい。阿弥陀仏にただ今救われないさいと勧められているということです。