安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

後生ハッキリした心になるとはどういうことでしょうか?(頂いた質問)

後生くらい心が破れると、後生ハッキリした心になると聞きました。後生くらい心というのは分かる気もしますが、後生ハッキリした心になるとはどういうことでしょうか?(頂いた質問)

後生くらい心=疑情、後生ハッキリする心=疑情の晴れた心と定義すると、「後生ハッキリした心」=本願の仰せを聞いて疑いなく、往生定まったことをいいます。


親鸞会では、「後生くらい心=死んだらどうなるか分からない心=疑情」といいます。
また、「後生ハッキリした心=死んだらどうなるかハッキリした心=疑情の晴れた心」といいます。
しかし、「後生くらい心」という言葉は御聖教にありませんので、そもそも定義がハッキリしません。


改めて言葉の定義をすれば、
疑情(=本願を疑い計らう心)≠死んだらどうなるか分からない心 ですから。
「後生くらい心」を、「死んだらどうなる分からない心」、「疑情」と説明するのは無理があります。


親鸞会の説明通り、
後生ハッキリした心(=疑情の晴れた心)=死んだ後がどうなるかハッキリする心 
とすると、死後の世界が分かるように思ってしまいます。
しかし、極楽の様子や、地獄の有様がわかるようになるのではありません。仮に「極楽浄土がどういうものかハッキリ分かる」とすれば、その人は仏のさとりを開いた方です。

親鸞聖人は、阿弥陀仏に救われると正定聚の位に入るといわれました。しかし、正定聚の位に入るとは、さとりをひらくことでは有りません。

「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。
また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚*1の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。(一念多念証文・浄土真宗聖典(註釈版)P679・法蔵館の真宗聖典P601)

ここで「正定聚」について、「往生すべき身とさだまるなり」と左訓されています。仏になるとは言われてません。

本願に疑い晴れると言うことは、阿弥陀仏の仰せを疑いなく聞いていると言うことです。「必ず浄土往生させ、成仏させる」という本願を聞いて疑いないのであって、「浄土」「成仏」の内容が分かったこととは違います。もし、「浄土」「成仏」とはどういうものかがハッキリ分かれば、その人は仏のさとりをひらいた人です。

阿弥陀仏に救われたと言っても、煩悩具足の身は何もかわりません。浄土往生を定めて下さった本願を疑いなく聞いて、本願にまかせているだけです。決して、死後の世界が目の当たりに分かるという意味で「後生ハッキリする」のではありません。
本願に疑い晴れている心です。

*1:【左訓】「往生すべき身とさだまるなり」