安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

南無阿弥陀仏とどうやったら聞こえるのか考えるとわからなくなります。(頂いた質問)

南無阿弥陀仏とどうやったら聞こえるのか考えるとわからなくなります。(頂いた質問)

南無阿弥陀仏は名号とか、阿弥陀仏の喚び声といわれます。しかし、南無阿弥陀仏は阿弥陀仏のただの喚び声ではありません。南無阿弥陀仏の喚び声以外に、助ける阿弥陀仏が西方浄土に座っておられるのではありません。

南無阿弥陀仏の名号と、阿弥陀仏が二つ別々にあるのではありません。一体不二です。これを名体不二といいます。

名体不二の弘願の行なるがゆゑに、名号すなはち正覚の全体なり。正覚の体なるがゆゑに、十方衆生の往生の体なり。往生の体なるがゆゑに、われらが願行ことごとく具足せずといふことなし。(安心決定鈔・浄土真宗聖典(註釈版)P1386

名号は、阿弥陀仏の五劫思惟の願と兆載永劫の行が成就したものです。阿弥陀仏という仏さま自体も、五劫思惟の願と兆載永劫の行によってなられたものです。ですから、「名号すなはち正覚の全体なり」といわれるように、名号は阿弥陀仏の正覚全体が顕されています。仏さまの徳の一部であったり、また阿弥陀仏がただ呼んでおられる声ではありません。

私たちの日常生活では、「人」と「人の声」は別物です。「○○さんの喚び声」は、「○○さん」ではありません。
例えば、海で遭難しているところを通りかかった船に助けられたような場面で、「早くこの船に乗りなさい」と船の人が呼びかける「声」と、実際に乗せてくれる「人」は全く別です。「早くこの船に乗りなさい」という人の呼び声は、聞こえただけでは船に乗ったことにはなりません。


しかし、南無阿弥陀仏は名体不二ですから、「呼び声(名号)」と「阿弥陀仏の体」は一体です。ですから、「早く大願の船に乗りなさい*1」の喚び声を聞いて疑い無いところに、阿弥陀仏の願行がすべてその人に働きます。南無阿弥陀仏の呼び声が聞こえたところに、私の往生が定まります。
それを、「正覚の体なるがゆえに、十方衆生の往生の体なり。往生の体なるがゆゑに、われらが願行ことごとく具足せずといふことなし。」といわれています。

南無阿弥陀仏を「喚び声」といっても、例に挙げたような日常生活での喚び声とはことなります。その声そのものが仏さまなのです。「ただ今救う」とつねに呼び続けられる南無阿弥陀仏は、そのまま私を助ける阿弥陀仏そのものなのです。

どうやったら聞こえるのかというお尋ねは、「喚び声」の先に「助ける仏」がおられるという考えから出てくる疑問だと思います。助ける仏が南無阿弥陀仏の外にあるのではありません。南無阿弥陀仏が私を救って下さる阿弥陀仏です。ですから、阿弥陀仏はただ今ここにおられるのです。
喚び声の先におられると、距離を置いてはいけません。ただ今救われて下さい。

*1:弥陀・観音・大勢至 大願のふねに乗じてぞ 生死のうみにうかみつつ 有情をよばうてのせたまふ「正像末和讃53」