安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

南無阿弥陀仏一つで救うと言われても、どうにも疑ってしまいます。なぜでしょうか?(頂いた質問)

南無阿弥陀仏一つで救うと言われても、どうにも疑ってしまいます。なぜでしょうか?(頂いた質問)

お尋ねに相当するご文を、教行信証信巻から紹介します。

〈如彼名義欲如実修行相応〉といふは、かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。しかるに称名憶念することあれども、無明なほ存して所願を満てざるはいかんとならば、(教行信証信巻-大信釈-論註引文・浄土真宗聖典(註釈版)P214

現代文はこちらを参照:http://goo.gl/Jqowr

南無阿弥陀仏は、私の一切の無明を破って、全ての願いを満たして下さいます。
そのような南無阿弥陀仏を口で称えたり、心に思っている人のなかで、未だ阿弥陀仏に救われない人がいるのはなぜか?ということを仰っています。


その理由は、

実のごとく修行せざると、名義*1と相応せざるによるがゆゑなり。(同上

であるといわれています。

「修行」とあるから、山にこもって何か修行するのか?といえば、そうではありません。
「実の如く」の「実」は、南無阿弥陀仏のことです。「如く」は、かなうということですから、名号のとおりになっていないからだといわれています。
「名義に相応せざる」も、「名」は「名号」ですから、名号の義に相応しない、名号のいわれにかなっていないということです。
別の言葉で言えば、本願を疑っているからだといわれています。

よって「実の如く修行せざる(不如実修行)」と「名義に相応せざる」は意味は同じ事です。本願を疑っている人は、このような人であるということです。
本願を信じ念仏せよと、本願に誓われている通りにせず、念仏を称えたらその功徳が少しでも足しになって往生できるだろうとおもって念仏をするのは、「実の如く修行せざる」「名義に相応せざる」状態です。


それをまた、もう少し詳しく次に書かれています。

いかんが不如実修行と名義と相応せざるとする。いはく、如来はこれ実相の身なり、これ物のための身なりと知らざるなり。(同上・P215]

「不如実修行と名義に相応せざる」とは何か?
それに対して、阿弥陀如来が「実相の身」「物のための身」と知らないからだといわれています。
「実相の身」の「実相」は真如のことですから、すでに真如を悟られた仏様だと言うことです。すでに仏に成られているのが阿弥陀仏です。
「物のための身」の「物」は衆生のことですから、衆生のための仏に成られた阿弥陀仏です。

そういう阿弥陀仏であることを知らないからだといわれています。
阿弥陀仏が、五劫思惟の本願を建てられたのも、兆載永劫の修行をされたのも、その結果南無阿弥陀仏となられたのも、すべて私のためだということを知らないということです。


自らの力で浄土往生できない私に対して、南無阿弥陀仏と成られて私に呼びかけて下さっているのが、阿弥陀仏です。
それを知らないから、こうしたらいいのではないか、これが足らないのではないか、阿弥陀仏に欠点が有るのではないか、私に欠点があるのではないかと、いろいろと考えてしまいます。


阿弥陀仏はすでに仏に成られているのですから、欠点はありません。
救われる私にも、「善根が足りない」といった欠点はありません。ただ、南無阿弥陀仏のいわれを知らないのです。本願を聞いていないからです。

そのまま救うの本願を、ただ今聞いて救われて下さい。

御文章5帖目8通・五劫思惟もそのことを言われています。

それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。
これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。(御文章5帖目8通

*1:名義…名号の実義。いわれ