安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「煩悩やりたい放題に生きている」私を救う為の本願です(6/14エントリーの追記)

2012-06-14 - 安心問答(浄土真宗の信心について)に追記

「煩悩やりたい放題に生きている」とご自分のことを書かれていますが、私も煩悩具足の凡夫です。しかし、阿弥陀仏の本願はその煩悩具足の凡夫を目当てに建てられています。

煩悩を制御できる人だけを救う本願ではありません。また、煩悩を捨てよという本願でもありません。

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典(註釈版)P707)

煩悩を抑えるのでもなく、自力の心を捨てて他力に帰せよというのが浄土真宗です。
その自力の心を捨てるということは、自分がやれば往生できるような者であると思う心を捨てて、身をたのまず、悪い心に目を向けるのでもなく、どんな者であっても、阿弥陀仏の本願・名号を疑い無く聞けば、煩悩を具足しながら浄土に往生する身になり、さとりを開くといわれています。

親鸞聖人がここで「具縛の凡愚・屠沽の下類」と言われたのは、そういう者も救われるという意味ではなく、ご自身のこととして言われているところです。

具縛はよろづの煩悩にしばられたるわれらなり、煩は身をわづらはす、悩はこころをなやますといふ。屠はよろづのいきたるものをころし、ほふるものなり、これはれふしといふものなり。沽はよろづのものをうりかふものなり、これはあき人なり。これらを下類といふなり。(同上)

質問をされた方が、どれだけ「自分は○○だ」と思っていても、本願に漏れるということはありません。「こんな私は……」という私視点ではなく、阿弥陀仏は「そんな私を救う」という本願ですから、阿弥陀仏視点で本願を聞いて下さい。阿弥陀仏は、必ずただ今救うと呼びかけられています。