阿弥陀仏のお救いを聞かせていただくと、いかに「老少善悪をえらばず」とはいえ、自分のようなものがあずかるにはあまり | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。
遠慮するというのも計らいとなります。
「自分のようなものが」と少し引いてしまうのも分かりますが、そんな私のために建てられた本願ですから遠慮はいりません。
これに加えて書きます。
阿弥陀仏の本願について、十方衆生を平等に救うと聞くとよくよく考えると分からなくなります。また、自分自身の姿を振り返ってみると、自分とつり合わないと思う気持ちもよく分かります。
しかし、そのように「遠慮する」というのは、それだけ阿弥陀仏の本願を「高級なもの」にしてしまい、自分から遠ざけているということになります。
たとえ、どれだけ自分と釣り合いが取れない阿弥陀仏の本願と思っても、そのような私を仏にするために本願は建てられました。
そのことを唯信鈔文意に親鸞聖人はこのように書かれています。
れふし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかひをふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにをさめとられまゐらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまふは、すなはちれふし、あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。摂取のひかりと申すは、阿弥陀仏の御こころにをさめとりたまふゆゑなり。(唯信鈔文意 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P708)
猟師や商人は当時卑しい職業とみなされていました。それによって当事者も引け目を感じている人も多かったと思います。今でも、自分の容姿や才能、経済状況によって自分は劣っていると思ったり、いろいろな属性が少数派であることによって「自分のようなものは」と引け目を感じる人は多いと思います。
しかし、そんな人たちだけではなく、私たちはみな「石、瓦、礫」のようなものでしかありません。しかし、阿弥陀仏の本願を二心なく聞いて信心の身となったなら、摂取の光明に摂め取られて、必ず仏のさとりをひらかせて頂きます。そのことを、「石、瓦、礫」を金に変えることに譬えられています。摂取の光明というのは、阿弥陀仏のお心に摂め取られるからであると言われています。
私が、優れているから助けるという阿弥陀仏はおられません。また、私が劣っているから救わないという阿弥陀仏もおられません。
私が、この私だから助けるというのは阿弥陀仏の本館です。遠慮は捨てて、ただ今助ける阿弥陀仏のお助けを聞いて下さい。
お知らせ
先日、光顔寺さんのHPに文章を書きました。
kougwanji.net