安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「真剣な気持ちで聞いたら救われると思うのは間違いだ」と、あるところで聞きました。どこが間違いなのでしょうか?(頂いた質問)

「真剣な気持ちで聞いたら救われると思うのは間違いだ」と、あるところで聞きました。どこが間違いなのでしょうか?(頂いた質問)

結論からいいますと、「真剣に」聞い「たら」救われるとの思いは間違いです。

理由は以下の2つです。

1.「真剣に」という私の「思い」で救われるのではないから

阿弥陀仏の救いは、阿弥陀仏の本願力一つ、南無阿弥陀仏一つによって決まるので、私が「真剣になった」「真剣になれなかった」によって左右されるものではありません。もし、「真剣になった人」だけ救われるのならば、十方衆生を救うことはできません。

2.聞い「たら」すくわれるのなら、ただ今救われないから

聞い「たら」というのは、「聞く」と「救い(信心)」の間に「たら」が入っているため、どうしても時間差があります。
「ただ今救う」が阿弥陀仏の仰せです。「ただ今聞いたら救う」ではなく、「ただ今聞いたのが救い」ということです。

特に親鸞会在籍者の考える疑問について

上記のような話をすると、特に親鸞会在籍者、中でも講師部員と活動熱心な幹部会員からは、「真剣に聞くのは間違いなのか?」とか「聴聞に極まるを否定するのか!!」という意見が出てきます。
特に弘宣局の発行物に「こんなことを言う者がいる」と掲載するときは、出典元のURLくらい紹介を希望します。

親鸞聖人のご和讃を出してきて意見をする人が、過去にもありました。

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たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり(浄土和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P561

特に親鸞会ではこのご和讃を根拠として、「みてらん火をすぎゆきて聞け」、「火中突破の聞法が大事」「それを親鸞聖人は勧めておられる!!」と主張します。反対に、「真剣な聞法を勧めない者は全部間違い者である!」とレッテル張りをします。

しかし、このような説明では「仏の御名(南無阿弥陀仏)」は、大千世界にみてらん火を過ぎたさらに先にしかないものになってしまいます。

親鸞会の主張を簡単に図式化すると以下のようなものです。

名号(南無阿弥陀仏)←|大千世界にみてらん火(超えられない壁)|←…(はるか先)…私

しかし、これは間違いです。「仏の御名(南無阿弥陀仏)」は大千世界にみてらん火の向こう側で待っておられるのではありません。
南無阿弥陀仏の方から私に向かって呼びかけて下さいます。ただ今救うと呼びかけて下さっています。
また、南無阿弥陀仏のお働きは、私を往生させる働きとしてすでに成就されたものです。「私が火中突破した」ことを加えて初めて成就するのではありません。
「仏の御名を聞く」とは、「真剣に聞きに行く」のではありません。「既に成就した南無阿弥陀仏」「すでに私に呼びかけられているところの南無阿弥陀仏」を聞くということです。すでに私を救うお働きは成就しておりますので、聞いたそのままが救いです。聞い「たら」という時間差はありません。
「ただ今助ける」を聞くと「ただ今助かる」となります。

親鸞聖人のご和讃は、「大千世界にみてらん火をも過ぎねば聞けない」ほどの尊い法であると教えられた大無量寿経下巻のお言葉からいわれたものです。法の尊さを言われたもので、「火中突破の覚悟」を救いの条件として示されたものではありません。

南無阿弥陀仏は、燃えさかる煩悩の火や波を突破して私に「ただ今救う」と呼びかけられます。「今から行くから煩悩の火を少し押さえておけ」とは言われていません。

「みてらん火をもすぎゆきて聞け」は「何を聞け」と言われているのかと言えば、「仏の御名(南無阿弥陀仏)」です。その「仏の御名」は、ただ今私に届いているものであって、「大千世界にみてらん火をもすぎた先」にあるのではありません。

そんな「大千世界をみてらん火をもすぎゆき」る菩提心がない私にかわって、阿弥陀仏の方から「ただ今救う」と呼びかけられる南無阿弥陀仏を疑い無く聞いてただ今救われて下さい。