安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

求道という言葉も意味について考える(頂いた質問)

求道とはどういうことをいうのでしょうか?生活即求道という言葉を聞いたことがありますが、どういうことでしょうか?(頂いた質問)

求道とは、文字通り道を求めることです。真実信心を求めているのですから、真実信心を求めることです。道を歩くことが、求道ではなく、求めるべきものを文字通り求めることです。

「毎月3回富山に行くだけで精一杯で、とにかく参詣しなければという気持ちで、毎日をすごしていました。」という話を何度か伺いました。

富山に限らず、法座に足手を運ぶという行為が目的化しては、ただ足を運んだ、聞いてきたということで終わってしまえば、「求道=足を運ぶこと」だけになってしまいます。
足を運ぶのは手段であって、目的ではありません。

これによりて、今月二十八日の御正忌七日の報恩講中において、わろき心中のとほりを改悔懺悔して、おのおの正義におもむかずは、たとひこの七日の報恩講中において、足手をはこび、人まねばかりに報恩謝徳のためと号すとも、さらにもってなにの所詮もあるべからざるものなり。されば弥陀願力の信心を獲得せしめたらん人のうへにおいてこそ、仏恩報尽とも、また師徳報謝なんどとも申すことはあるべけれ。(御文章3帖目11通)

(大意)
今月28日の7日間報恩講期間中に、わるい心中を改め懺悔し、それぞれが真実信心を獲得しなければ、たとえ報恩講に足を運び、形ばかり御恩報謝といっていても、なんの意味もないことだ。阿弥陀仏の願力によって真実信心を獲得した人にこそ、仏恩報謝とも、師徳報謝と言うこともあるのだ。

蓮如上人も、足手を運んだだけではなく、真実信心を獲得せよといわれています。

勿論仏法は聴聞に極まるですから、聴聞が大事です。
しかし、この聴聞とは

たとい大千世界に
みてらん火ををもすぎゆきて
仏の御名を聞くひとは
ながく不退にかなうなり(浄土和讃)

といわれる、「仏の御名」を聞き、「ながく不退にかなう」ことです。
つまり、真実信心を獲得することです。

火の中分けて、足を運べといわれてはいません。「南無阿弥陀仏を聞き、ながく不退にかなう」身になれといわれています。

足を運ぶのは何のためかと言えば、阿弥陀仏に救われるためです。参詣するためではありません。
実際に、月に3回たとえば富山に東京や、大阪から行こうと思えば大変なことです。日曜日に法座があれば、家に帰れば0時前後となります。そこで翌日から仕事となり、平日も仕事を終えて会合に足を運び、疲れもとれぬまま、また土曜日に移動をして、日曜日に富山へと足を運ぶ。
交通費もかかりますし、時間のやりくりも必要です。体調の管理もふくめて、あらゆることを富山に月3回行くために調整しなければ、とても足を運ぶことはできません。

ワークライフバランスという言葉が最近よく耳にします。ワーク(仕事)とライフ(生活)バランスを考えて、仕事も生活も充実させようというものです。
しかし、月3回富山に行くという生活になると、ワークも交通費等々を稼ぐためとなり、ライフもそのために調整するようになります。
日常生活が、そのまま、月3回富山に行くための手段となりますので、「生活即参詣」となります。そのうえ、「信心獲得せよ」ではなく「とにかく参詣せよ」と言われれば、「求道=参詣」となるのも仕方のないことです。

「とにかく参詣することが大事だ」といっても、それこそ体力的に、経済的に厳しい中なんとかなんとかと足を運ばれる方には、回答にならないのです。
「もうこれ以上頑張れない」と思っている人に「もっと頑張れ」では、答えにならないのです。

常に、ただ今の救いを忘れず、ただ今救う本願に、ただ今救われようとする人は、その心がけを忘れなければ、生活のままが求道(救いを求める)ことになるのです。

足を運ぶのが悪いのではありません。信前信後聞法は大変大事な事なのです。
しかし、目的を忘れ、足を運ぶ形ばかりを問題にするのは、求道ではありません。