前回のエントリーについて、複数の方よりコメントを頂きました。有り難うございました。
言われていることはわかりますが、しかし聴聞するときはそのぐらいの気持ちでなければならないということを追記してもらいたいと思います。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20111101/1320137870#c1320253732
一切私の力は役に立たないから居眠り半分でも助かるときは助かる、ということを言われたいのかとも思えます。(なしさんのコメント)
なしさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
なしさんのコメントより、当エントリーは前回の追記として書きます。
前回エントリーは「真剣に聞いたら助かる」という意見について書いたものです。いわゆる「聞き方」によって救いが左右されるのであれば、本願力一つの救いではなくなってしまうということを書きました。
なしさんのコメントにあるように、全く仏法を聞いたこともない人にむかっては「真剣に聞いて下さい」と勧めます。
しかし、「真剣に聞いてさえいればいつかは…」と思っている人に向かって、そのように勧めるのは間違いになります。
なぜなら「真剣に聞く」も「一切私の力は役に立たないから居眠り半分で」も、どちらも私の聞き方を問題にしていることになっているからです。阿弥陀仏の仰せは、聞く一つであって、「どんな聞き方をするか」ではありません。
私の思いとしては「真剣に聞かなければならない」という受動的な立場ではなく「どうしても救われたい聞きたい、なぜ自分は救われないのか」と真剣にならざるをえなくなるのではないのでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20111101/1320137870#c1320287978
たとえ、真剣に求めたら救われるが間違いだとしても。 (名無しさんのコメント)
名無しさんからコメントを頂きました。有り難うございます。
すでに真剣になっている人に対して、「真剣に聞け」と勧め、「さらに真剣になったら救われる」ようにいうのは間違いだというつもりでエントリーを書きました。
「聞き方」を問題にする人は、個人差はありますが「真剣に救いを求めている人」に違いありません。
阿弥陀仏の救いは、阿弥陀仏の仕事であって私の仕事ではありません。私がかつていた親鸞会では「人生の大事業」と聞かされ、まるで私の仕事であるかのように思っていました。そのため、事業計画を自分で立て、どれだけの時間と真剣さで、どれだけ聞けばいいのだろうかと考えていました。また、ある程度真剣に聞こうという気持ちになると、いわば自分の仕事を先にある程度済ませて、阿弥陀仏の出番を待つような心になってしまっていました。
私が往生浄土するのは、最初から阿弥陀仏のお仕事です。私が、手伝う部分はすでにありません。私は、「真剣に」とか「力を抜いて」などなどと計らいをいれずに、「ただ今救う」の本願を疑い無く聞くだけです。
阿弥陀仏の救いはただ今ですから「○○で聞いたら」ではなく、「聞いたのがそのまま信心」となる聞即信です。