安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「真剣さが足りないから、いま阿弥陀さまの呼び声が聞こえないのでしょうか?」(東堂の前さんのコメントより)

真剣に聴聞することは大切です。
南無阿弥陀仏は無条件の救いと聞かせて頂きますが、
聴聞がなくて救われることはないと教えて頂きます。

では、私が真剣に聞けば救われるのでしょうか?
言い換えれば、真剣さが足りないから
いま阿弥陀さまの呼び声が聞こえないのでしょうか?

たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも、
そのなか押して南無阿弥陀仏のいわれを聞く人は、
永久に変わらぬ幸せに救われるのである。
と教えられます。

こう言われると、阿弥陀仏の救いは、
猛火に包まれた大宇宙の彼方にあるように聞こえます。

阿弥陀仏の救いは、そんな遠くにあるのでしょうか。

でも、私には猛火に包まれた大宇宙を超えて聞く、
そんな根性も求道心も真剣さもありません。

横着にあぐらをかき開き直て言うのではありません。
実際に弱い心で、それすら無いかもしれません。


私の救われる教えを聞かせて頂きたいと思っています。(東堂の前さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170101/1483225088#c1483247209

東堂の前さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
「真剣さが足りないから、いま阿弥陀さまの呼び声が聞こえないのでしょうか?」とのことですが、それは違います。
コメントの文章をお借りすると「足りないのではなく、余分なものがあるから、阿弥陀さまの呼び声が聞こえない」のです。


東堂さんが料理をされる方かどうかは存じ上げませんが、料理に例えると「雑煮を作っている時、何か足りないなと思って醤油を足したり、辛すぎたといって砂糖を足したり、甘すぎたといってまた醤油や酢を入れた上で、勢いあまって冷蔵庫のオイスターソースを入れてみて、なんだかとても食べられなくなった状態」を想像してみて下さい。その雑煮を前にして「何が足りなかったのでしょうか?」と作った人に聞かれれば、「足りないものはなにもありません。むしろ余分なものが多いのです。」というしかありません。


同様に、「何故阿弥陀さまの喚び声が聞こえないのですか?」の問いについては、東堂の前さんが、すでにかなり自力の調味料を足している状態になっています。そうすれば、料理ではできないことですが「余分なものを捨てて下さい」というのが回答になります。蓮如上人が

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」(領解文)

https://goo.gl/GaoHg0

と言われるのはそのことです。


言い換えれば、今迄してきたことの何が悪かったのだろうか?何か足らなかったのだろうかといくら考えても、目の前のどうしようもなくなった雑煮は食べられるものにはなりません。ではどうすればいいでしょうか?料理でいえば、作り直すことです。状況でいえば、振り返らないことです。また、やってきたことを忘れることです。


なぜなら、いつでも南無阿弥陀仏は私に呼びかけられ、ここにおられるからです。そこに、足さずにそのまま聞きうけるより他はありません。ただ今救うと聞いたら、ただ今助けられるのです。

「たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも」について

次に、「たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも、」について書きます。
これは、親鸞聖人のご和讃でいえば、以下のものを言われているのだと思います。

(31)
たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり(浄土和讃)

https://goo.gl/ey0NvW

これは大無量寿経に説かれたことを、親鸞聖人がご和讃に書かれたものです。


ここでよくよく思いだして頂きたいのは、大無量寿経もご和讃も、阿弥陀仏の本願の救いが書かれています。阿弥陀仏の本願は、「修行もできない、菩提心もない」ものを何とか救いたいということで建てられたものです。


「猛火に包まれた大宇宙の彼方」に進める人は、とんでもなく菩提心のある人であり、そこを進む修行ができる人です。「何も出来ないものを救う」本願なのに、「猛火に包まれた大宇宙の彼方|に行ける人しか救わないという条件がつけられる筈はありません。


これは、法の尊さをいわれたものです。本来は「大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」行かねばえられないような大変な利益(ながく不退にかなう)なのだと示されたものであって、条件ではありません。阿弥陀仏が回向されるのは、「猛火に包まれた大宇宙の彼方」に行かねばえられないくらいのものなのです。それを、私に差し向けて下されるのですから、私は何も足さずに受けるより外はありません。


東堂の前さんは「実際に弱い心で、それすら無いかもしれません。」と言われるのは大変有り難いことだと思います。私には「根性も求道心も真剣さも」あると思って法を聞く人は多くあります。しかし、無い袖は振れませんし、ないものはどれだけ考えてもないのです。本来ないものを「出そう」として、「出さねば救われない」と考えても、最初の「出そう」とするものがないのですから、「『出さねば救われない』救い」が獲られるはずはありません。つまり、自分で作り上げた救いでも、すでに無理な状態なのです。そうではなく、何も出さなくてよいと建てられた南無阿弥陀仏を聞いて下さい。ただ今救うということは、条件がないのです。準備がいらないから「ただ今救う」の仰せなのですから、ただ今救われて下さい。