安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

火の中を分けることが大事ではなく、仏の御名を聞くのが大事です(頂いた質問)

親鸞会では「火の中かきわけても法は聞くべきに」のど真剣さを求められていましたが、私にはそんな真剣さなど微塵も持ち合わせていません。感情にあおられ時々ちょっとやる気出す自分にうぬぼれて、浅ましいと思えばあくびをし、こんなんではだめだ、と自責し、求めようとすれば、それは自力。
何をすればという思いも自力ならば、やる気も失せます。だからと言って求めずには居れないのですが、一体自分は何をしていればいいんでしょうか。。。(頂いた質問)

回答します。
火の中をかき分けても、仏法は聞くものだと言われて、とにかく真剣にならねばと頑張ってこられたけれども真剣になれなくて、やる気を失ったというお尋ねだと思います。
火の中を分けても聞きなさいについて、親鸞聖人のご和讃から解説します。

たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり(浄土和讃

ここで、「ながく不退にかなふなり」と言われるのは「仏の御名をきくひと」であって、「みてらん火をもすぎゆきて」行くようなど真剣さになった人ではありません。

親鸞聖人は、「火の中すぎゆきて」真剣になれ、と教えておられません、「仏の御名をきくひと」になりなさいと勧めておられます。

聞法は大事です。しかし、「真剣な『聞法』」と、「真剣になれ」は違うのです。
真剣になるかならないかが問題になると、質問されたコメントの言葉を使うと「時々ちょっとやる気を出した」なら真剣になれたと自惚れたり、自惚れた自分を浅ましいと反省したり、「あくび」が出れば真剣になれないと自責をしたり、どのみちやる気を失ってしまいます。
凡夫にそんな真剣さを求めても、真剣になれないような者だから阿弥陀仏は本願を建てられたのです

その本願を聞きなさい、名号を聞きなさいと勧められているのが、「ほとけの御名をきくひとは」救われますから、聞きなさいというお勧めです。

結果として、「真剣になれ」が目的となると、真剣になろうとすれば、真剣になる気持ちになれるときはよいですが、なれないときは落ち込みます。そのうえ、真剣に求めようとするのが自力といわれれば、何をしていいか分からなくなるのは当然です。

簡単に、自問自答の中身を、仮にAとBのやりとりにしますと、以下のようになります。
A「真剣になれ」
B「わかりました。」真剣になろうとする→なれないときは落ち込む

A「真剣になろうとする、それは自力だ」
B「?」

加えて、真剣になったかどうかというのは、主観の問題なので、「どれだけ聞き覚えていたか」「どれだけ集中して聞けたか」「あくびがでなかったか」が問題になってきます。

救われるかどうかが問題なのに、自分の心の変化が問題になってしまいます。

救われたいと思うこと自体は、阿弥陀仏からおこされた聞法心であって、それを捨てよと言われた自力と混同してはなりません。
求めずにおれないという心が悪いのではなく、阿弥陀仏の救いに対して、自分の善根や、真剣になったかどうかを差し出してなんとか足しにしようという心が悪いのです。

阿弥陀仏の救いは現在働いておられますので、どうすればよいかと言うことですが、阿弥陀仏にただ今救われて下さい。