安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

迷える人々を導くリーダーについて考えてみました。(ふるさとさんのコメントより)

ふるさとさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(略)
毎日生きているのが苦しく、将来が不透明で不安です。
こういった日々がずっと続いていくだけだど本当に辛抱の一生にすぎませんね。
心豊かに生きるための指針となる書物は山ほどありますが、やはり南無阿弥陀仏をそのままいただかない限りは心は晴れ晴れしなのいのでしょうね。
今の時代、南無阿弥陀仏を喜んでいる方で、さらに迷える人々を導いてくれるようなリーダーが求められているような気がしてなりません。
政治家ではなく人徳のある念仏者のリーダーがいたらなぁと思います。(ふるさとさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110929/1317286496#c1317562101

最近目にするニュースから、いろいろと「日本はどうなるのだろうか」と考えることもある今日この頃です。

ふるさとさんのコメントを読んで、御文章の当時世上(4帖目3通)を思い出しました。

しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの広大の悲願にすがりて、在家止住の輩においては、一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもつて宝の山にいりて手をむなしくしてかへらんに似たるものか。よくよくこころをしづめてこれを案ずべし。 (御文章4帖目3通・当時世上

蓮如上人の時代も、「いつのころにか落居*1すべきともおぼえはんべらざる風情なり」といわれる状況でした。今日の日本も、中身は違いますがよく似ていると思います。原発問題に関しても、いつ収束するのか全くわからない状況です。

このようなご時世ですから、蓮如上人のいわれるように「一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもつて宝の山にいりて手をむなしくしてかへらんに似たるものか」と思います。時代がこうだから特別にというわけではありませんが、一人でも多くの方が本願を聞いて浄土往生する身になって頂きたいと思います。

そこで、「人々を導くリーダー」についてですが、私は真宗においては「人々を導く」のは仏様の仕事であって「リーダー」の仕事ではないと思います。
親鸞聖人も「親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。(歎異抄第6条」と、仰っています。ご自身は「人を導く者ではない」と言われています。

加えて言えば、このような世の中が平和になればいいのにというのは、親鸞聖人ご自身も「世の中安穏なれ」と仰っていますが、決してご自身が政治的活動をしようと仰ったことではありません。
往生一定となった人は、阿弥陀仏のご恩を思い念仏するときに「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」と思うのだと仰っています。

往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。よくよく御案候ふべし。このほかは別の御はからひあるべしとはおぼえず候ふ。 (御消息(下)25・浄土真宗聖典(註釈版)P784

世の中を安穏とするために仏法を広めるのではなく、仏法を聞く人が結果的に仏恩報謝の気持ちで世の中安穏なれと思うのだと親鸞聖人は言われています。
優先順位で言えば、「一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生」することが一番です。その結果として、「世の中安穏なれ」という心も出てきます。ついでにいえば、不要な建物を建てたり、各地に会館を建てるのを優先してから、「一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生」しようというはまったく本末転倒です。

そのような教義的な背景もありますが、もう一つ言いますと、「持ち分」ということからいっても、「真宗を教える立場の人」は「世の中の人を導くリーダー」ではないと思います。

例えば、「医者」は、患者の命を救うことが持ち分です。「政治家」は、政治を行うことが持ち分です。その人その人の持ち分で、懸命に仕事をするままが世の中をよくしていく結果になっていくのだと思います。
医者が医者をしながら政治をすることは、やはり専門外の仕事になってしまいます。

ただ、個人的には政治をする人に、仏法精神を少しでも持った人がいればいいな、とは思いますが。その点では、ふるさとさんの意見に同意します。

*1:落居…しずまる。決着がつき、落ち着くこと。