安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

称名念仏する時、①南無阿弥陀仏はただ今救うの仰せだなと思いながら称える。②ただ今救う仰せだとかは思わないようにして称える。③思おうが思わまいが関係なく称える。④お救いは南無阿弥陀仏にあるのだから、救われたら称えていた念仏は、ただ今救うの仰せだったとわかると思いながら称える。などなどいろいろ考えていまいますが、結局のところ称えている南無阿弥陀仏を聞くだけなのでしょうか?(Peing-質問箱-より)

anjinmondou.hatenablog.jp
上記の記事に質問を頂きました。

Peing-質問箱より

2023-10-27のエントリーで、「ただ今救うの仰せを聞いて、ただ今救われてください。ただ今救うの仰せとは、今 | Peing -質問箱-

質問箱には以下のように書きました。

4つの中では、3番になります。
南無阿弥陀仏のいわれを聞かれている上では、「どのように思って称えたらいいだろうか」と、考えてから称えるよりは、まず称えることが大事です。称え聞くところの南無阿弥陀仏について、ただ今助けるの仰せだと聞いているのでしたら、称え聞いて疑いないのが信心です。

これに加えて書きます。

どのように思いながら称えたらよいだろうか考えますと、「それがわかるまでは称えない」という思考になってしまいます。間違った念仏では救われないと思えば称えられなくなってしまいます。

そこで色々考えて念仏をそもそも称えないと決めますと、阿弥陀仏の本願と離れていってしまいます。
親鸞聖人は阿弥陀仏の本願・第十八願を「念仏往生の願」と言われています。

この回向せさせたまへる願を、念仏往生の願(第十八願)とは申すなり。この念仏往生の願を一向に信じてふたごころなきを、一向専修とは申すなり。
親鸞聖人御消息 - WikiArc末灯鈔21・浄土真宗聖典註釈版P779)

質問される「どう思いながら称えるのがよいか」でいえば、上記の御消息では「一向専修」がよいという事になります。
では、一向専修とはどういうものかといえば「この念仏往生の願を一向に信じてふたごころなき」事だといわれています。

この念仏往生の願について、御消息では別のところでこう言われています。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(親鸞聖人御消息 - WikiArc・末灯鈔12・浄土真宗聖典註釈版P785)

阿弥陀仏の本願は、「南無阿弥陀仏を称えるものを極楽へ迎えとると誓われたもの」と深く信じて念仏を称えることが素晴らしい所です。

念仏するものを助ける本願」と信じるのが信心です。
「『念仏するものを助ける本願』と信じて」念仏するのが、一向専修の念仏です。

そこで、この赤字の「念仏するものを助ける本願」の念仏とはどんな念仏なのだろうかと考えると、分からなくなってしまいます。
なぜならこの赤字の念仏を開いてみると、以下のようになるからです。
「『【念仏するものを助ける本願と信じて念仏】するものを助ける本願』と信じて」念仏するのが、一向専修の念仏です。


【】内の最初の念仏とは何かを考えるとまた同様になってきます。今度は色を変えてみます。
「『【〔念仏するものを助ける本願と信じて念仏〕するものを助ける本願と信じて念仏】するものを助ける本願』と信じて」念仏するのが、一向専修の念仏です。

ここまで書くと分かられると思いますが、「念仏」とはどんなものかを理解しないと称えないという考え方では、その答えに論理的には到達できません。なぜなら念仏の出発点は阿弥陀仏の本願に選ばれた行だからです。

私の方からは南無阿弥陀仏の本当の価値は知る事は出来ません。本願のいわれを聞いている以上に私にそれを知る智慧がありません。

どんな心持ちで称えるにしても、順番からいえばまず念仏であって、私がこう考えると言うのが先に来るのではありません。私がこう考えるたからという事によって念仏の私を助ける働きがなくなると言う事はありません。

私を助ける働きが南無阿弥陀仏の念仏となって現れて下さっています。

されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。(同)

と、親鸞聖人は仰っています。

どう思って称えるかを気にするようでしたら、まず称えて聞いて下さい。
念仏するものをただ今助ける本願です。その念仏往生の本願を信じるのが信心です。そう信じて念仏する人は報土に往生させて頂きます。


続きの質問はこちら
anjinmondou.hatenablog.jp