安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

『帰命尽十方無碍光如来』は『南無阿弥陀仏』と同じで親鸞聖人はこちらの十字名号で布教していたと聞きましたが、救いは六字名号でなければならないということとの整合性はどう説明するのでしょうか?(七誌の権兵衛 さんのコメント)

七誌の権兵衛 2017/02/15 19:51
『帰命尽十方無碍光如来』は『南無阿弥陀仏』と同じで親鸞聖人はこちらの十字名号で布教していたと聞きましたが、救いは六字名号でなければならないということとの整合性はどう説明するのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170214/1487070759#c1487155862

お尋ねの件については、改邪鈔のご文を指して言われているのだと思います。

本尊なほもつて『観経』所説の十三定善の第八の像観より出でたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず。天親論主の礼拝門の論文、すなはち「帰命尽十方無礙光如来」をもつて真宗の御本尊とあがめましましき。いはんやその余の人形において、あにかきあがめましますべしや。末学自己の義すみやかにこれを停止すべし。 (改邪鈔)

https://goo.gl/C7dcck

親鸞聖人が、本尊として木像などを用いず、「帰命尽十方無礙光如来」を本尊とされたとのことです。
ただ、これに関しては親鸞聖人の六字名号もあれば、八字名号もあるので、十字名号しか用いられなかったということには成りません。

また、布教においてとのことですが、専ら「帰命尽十方無礙光如来」だけを勧めて、「南無阿弥陀仏」を勧められなかったとか、その反対ということはありません。

それについては、御消息に以下のようにあります。

念仏申し候ふ人々のなかに、南無阿弥陀仏ととなへ候ふひまには、無碍光如来ととなへまゐらせ候ふ人も候ふ。
これをききて、ある人の申し候ふなる、南無阿弥陀仏ととなへてのうへに、帰命尽十方無碍光如来ととなへまゐらせ候ふことは、おそれあることにてこそあれ、いまめがはしくと申し候ふなる、このやういかが候ふべき。

南無阿弥陀仏をとなへてのうへに無碍光仏と申さんはあしきことなりと候ふなるこそ、きはまれる御ひがことときこえ候へ。
(中略)
あるいは阿弥陀といひ、あるいは無碍光と申し、御名異なりといへども心は一つなり。阿弥陀といふは梵語なり、これには無量寿ともいふ、無碍光とも申し候ふ。梵・漢異なりといへども、心おなじく候ふなり。(御消息)

https://goo.gl/uRg54a

意味を大まかに言いますと、念仏している人の中に、南無阿弥陀仏と称えている合間に、無碍光如来と称えている人もいました。それを、ある人がそのように南無阿弥陀仏と称えて、また帰命尽十方無碍光如来というのはよろしくないと批判しました。
それに対して、そのように批判するのが間違いであると書かれた手紙です。
阿弥陀といっても、無碍光如来と名前が違っても、心は一つで同じであるといわれたものです。

どちらかでなくてはならない、といわれたものではありません。

ただ、一般には南無阿弥陀仏と親鸞聖人が書かれたものの方が多いです。ご和讃などは、そのよい例だと思います。

また、親鸞聖人が、本師と仰がれる法然聖人の選択本願念仏集の冒頭に書かれているのことを、親鸞聖人は以下のように教行信証に引文されています。

『選択本願念仏集』(選択集 一一八三)[源空集]にいはく、
「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。 (教行信証行巻)

https://goo.gl/Fw9dyK

往生には、念仏を本とすといわれた、その念仏はここでは「南無阿弥陀仏」と書かれています。そこから、親鸞聖人の教えで「念仏」とか「念仏成仏」といったときは、多くの場合は南無阿弥陀仏を勧められたとものとされています。

でん 2017/02/16 12:11
整合性も何も、同じじゃないですか
南無阿弥陀仏の方が称えやすいからその様に称えてるだけであって

十字名号の方が意味が分かりやすいから
布教に適していたのではないかと思われますが

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170214/1487070759#c1487214663

七誌の権兵衛 2017/02/16 14:58
真宗においては六字名号を教えの要とするので救いの体は文字列なのかと思ってましたが意味として念仏するんですか?
ということは念仏は十字名号でも、または「お任せします、阿弥陀様」でもいいわけですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170214/1487070759#c1487224716

南無阿弥陀仏といっても、帰命尽十方無碍光如来といっても、御消息にあるようにその心から言えば同じですから限定するものではありません。ただ、称えるにしてもどちらが現在主になっているかといえば、先の選択集にあるようにやはり南無阿弥陀仏です。
御文章でいえば、弥陀をたのむということになりますから、それを現代語にすれば「お任せします、阿弥陀様」でも意味さえ間違わなければ特に問題はないと思います。

とはいえ、「親鸞聖人はこのように教えられました」または「法然聖人はこのように教えられたと親鸞聖人は言われています」と伝えるのが真宗における布教だと私は思っています。その意味では、親鸞聖人や法然聖人が勧められた「南無阿弥陀仏」をあえて使わないのはかえって不自然だと思います。

ご法座でも、合掌礼拝するときは、伝統的にみな「南無阿弥陀仏」と念仏もうしておりますので、その「南無阿弥陀仏とは」と伝えてこられたのが、念仏の教えです。また南無阿弥陀仏はただの文字列ではなく、阿弥陀仏の大行ですから、文字列ならば、データ量は六字で十数バイトしかありません。しかし、南無阿弥陀仏は私を浄土に往生させる大変なお働きがあり、阿弥陀仏の正覚そのものです。

その南無阿弥陀仏に救われるということですから、帰命尽十方無碍光如来でも問題はないのですが、伝統的に南無阿弥陀仏を称え聞いてきたのが現在まで続く浄土真宗です。繰り返しになりますが、個人として称えやすいほうでいいので「絶対こちらでないといけない」ことはありませんが、念仏申すことを抜きには浄土真宗の教えはありません。