安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

真宗の話と八識がなじまない理由(真宗異安心批判/藤沢教馨著-洗心書房より紹介)

洗心書房で復刊された「真宗異安心批判/藤沢教馨著」を読んで、なるほどと思ったところがあったので紹介します。
私は、学生時代に親鸞会から勧誘を受け、平成5年に入会しました。勧誘を受けた最初によく聞いた話が「八識」の話でした。親鸞会(富山県射水市)の高森会長も時々話をする内容です。

この八識の話が親鸞会在籍時代にも引っかかっていたのは、「私」の「何」が浄土往生するのかという問題です。「阿頼耶識が浄土往生するのか?」とか、「信心決定とは阿頼耶識が何か別のものに変化するのか?」と考えていました。
関係ないなら、そもそも「八識」の話をなぜするのかという疑問がありました。

いろいろと勉強はしてみましたが、今回紹介する「真宗異安心批判」がわかりやすいとおもったので、今回はその部分を紹介します。引用する箇所は「八.真宗より見たる唯心論に就いて(P64−)」です。(旧漢字、旧仮名づかいは現代的に変換しました)

  • 倶舎六識説についての批判

 我が浄土真宗における安心を領受するところは、倶舎のこころよりいわば第六意識である。即ち私たちが常に思慮し分別す心に領得するものであって、私たちが生死に流転するということは全く煩悩悪業によるのだから、本願名号正定業の業因をもって、信の一念に生死流転の業と交渉がついて、命終のとき正定聚にて往生するのであるというのであります。
 この説は根本主体として考慮した説だと思う。しかるに唯識の意からうかがった時には、極悶絶とか極睡眠の時は,前六識には間断があるのであります。間断があるとすれば前六識に領得した信心もまた間断があることになるから、信心の相続が初起と後続が一巻することが出来ぬことになります。
 又天台の意からいう時は、小乗の教えは諸法即実相であることを知らないから、すべてが五薀仮和合を称えて実体がないといい、遂には身心都滅して涅槃に入るという。そこで何者か獲信し、何者か浄土に往生することが出来よう。故に倶舎の第六識説を依用するということは絶対に不可であると思う。(真宗異安心批判/藤沢教馨著-洗心書房より)

  • 法相八識説についての批判

(中略)
又第八識(阿頼耶識)は凡夫では有漏相続の信であるに関わらず、法相ではこれに無漏の種子をたもつというけれども、すでに有漏心なるうえは無漏の種子を置くことは不可であると思う。たとえば砂地には楼閣を建設することが出来ぬようなものであります。
又転計して第七の未那識に獲信するといわんか。第七識は実我の見であって、常相続の識であります。もしこれに無漏の信心を生ずるとすれば、第七の我見断絶するのであるから、浄土に往生する心がなくなることになります。
要するに一言にしてこれを批評するならば以上倶舎の第六識説、法相の八識説は小乗の法門であるから、真宗一家においては依用すべからざることは明瞭であります。(真宗異安心批判/藤沢教馨著-洗心書房より)

本書にも書かれていありますが発行当時の大正15年ごろは、「唯識の八識説を用い、宇宙万有の開発は第八阿頼耶の蔵識によるものとして、霊魂の不滅もこれによって論じ、あわせ直ちに南無阿弥陀仏の業因は第八阿頼耶識に信の一念に薫ずるものであると、滔々と論じているのを聞くのであります」という状況であったようです。

この話をよむと、高森会長の話と符合することが多く、戦前戦後当時の流行の話を今日までしているのが高森会長であると言うことがよくわかります。