他力をたのむとは、阿弥陀仏に自分の主導権をお渡しするということでしょうか? | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。
自分の主導権といっても、自分の意思決定権などのことではありません。私の後生については、私の手に負えないものなので、阿弥陀仏のお助けにおまかすると言う事です。自分で何とかしようと思っているのが、主導権を握っているような状態とすれば、それは手放すものです。
これに加えて書きます。
往生は一人のしのぎなり
「往生は一人のしのぎなり」という言葉が御一代記聞書にあります。そう聞くとやはり自分で何とかしなければならないと考えてしまいます。
(171)
一 往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることなり。よそごとのやうに思ふことは、かつはわが身をしらぬことなりと、円如仰せ候ひき。(
蓮如上人御一代記聞書 - WikiArc・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1284)
私も以前はこの話を聞いて、「往生は一人のしのぎ」なのだから自分で何とかしなければと考えていました。阿弥陀仏に助けていただけるような場所を勝手に想定し、そのステージまでは自分で到達し、そこで救っていただくように思っていました。
自分で何とかしようというのは自力
しかし、このような考えは全くの自力であります。親鸞聖人が書かれている通りです。
わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(親鸞聖人御消息 - WikiArc
・浄土真宗聖典註釈版P746)
自分は今のままでは助からないだろうからと計らって、自分の体や口や心の状態を整えて、あるいは以前よりましになるように努力して、何とか浄土に往生をしようとするのを自力といいます。
これは「こういう人は救われる」「こういう人は救われない」という線引きを自分の中で勝手に作り上げる考えから来ます。自力とか計らいというのはそのように阿弥陀仏の本願を分けることをいいます。
分けることで自分の持ち分を作る
阿弥陀仏の本願を分けた結果、「阿弥陀仏が救ってくださる領域」と「自分で頑張る領域」を分別してしまいます。「せめてここまでは自分でやらねば」と「自分の持ち場」を作っていますから、そこは「自分が主導権を持っている」と考えます。
見方を変えると「自分の持ち場」に阿弥陀仏が入ってくる事を嫌うようになっている状態です。「ここは自分の持ち場ですから、阿弥陀仏は向こうで待っててください」という事です。
そのような主導権や持ち場というものは阿弥陀仏の救いにはそもそも想定されていないものです。本願にも入っていません。
ですから他力をたのむとは、阿弥陀仏の仰せの通りに「ただ今助ける」と聞いて疑いない事ですから、そこには私の主導権というものは存在ません。主導権を持っていると思っているものは捨てるべきものです。