安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

何をやっても自力と聞けば、何をやっても助かる手がかりがないように思います。しかし、逆に本願をたのもうという気持ちもあまり起こってきません。一体どうしたらよいのかと悩んでいます。(頂いた質問)

何をやっても自力と聞けば、何をやっても助かる手がかりがないように思います。しかし、逆に本願をたのもうという気持ちもあまり起こってきません。一体どうしたらよいのかと悩んでいます。(頂いた質問)

ああ考えても自力、こう考えても自力と聞けば確かに八方ふさがりのような気持ちになると思います。
しかし、「本願をたのむ心」は自分からおこす心ではありません。「よーし本願をたのむぞ!」という心になったら救われるというものではありません。

こうしても自力とか、こういう心がおこらないからダメだと、自分にだめ出しばかりをしていると、自分の心に自分が囚われて本願の仰せに心が向かなくなってしまいます。
「聞きたいと思う心はなけれども 聞かせたいとのお慈悲届いて」*1
という歌もあります。
私に聞きたい心があって、本願の仰せを聞くのではありません。また、罪悪を感じられるから聞けるのでもありません。罪悪を感じないから聞けないのでもありません。
なんとか聞かせたいのお慈悲が届いて本願の仰せを聞かせて頂くのです。これが本願力回向のお働きです。

(82)
信は願より生ずれば*2
 念仏成仏自然なり
 自然はすなはち報土なり
 証大涅槃うたがはず(高僧和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P592

このご和讃でも、信は「願より」生ずると言われています。「私の心より」生ずるのではありません。
自分の心を見つめて、聞けそうだとか聞けそうにないという悩み事は、「信は願より生ずる」と思っていない心です。「信は(私の)心から生ずる」ものではありません。まったく私の心には、信楽になる要素はありません。ですから、願より生ずるといわれています。

一番目につくのは自分の心だと思いますが、そこから信は生じません。本願力回向を聞いて、ただ今すくわれてくさい。

*1:譬喩因縁説教妙弁集:洗心書房発行より

*2:【左訓】「われら衆生の信は弥陀の願より起るなり」(異本)。