安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

そのままと言われてそのままと受け取れません。このように言うと受け取れたら救われるという思いがあると言われる。すべて堂々巡り。(もとさんのコメントより)

もとさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

そのままと言われてそのままと受け取れません。このように言うと受け取れたら救われるという思いがあると言われる。すべて堂々巡り。
自力の心が憎たらしくてしょうがない…もういやになります。(もとさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110914/1315987121#c1316006028

堂々巡りという言葉は、実感として非常によく分かります。
なぜ堂々巡りになるかと考えて見ると、答えのでないことを一生懸命に考えているからです。「どうしようもないこと」を「どうにかしよう」と考えるときに、人の思考は堂々巡りになって同じ所をぐるぐる回ってしまいます。

例えば、人間は必ず年を取っていくものです。「老いていくこと」をどうにかしようと頑張っても、答えは出ません。「どうしたら年を取らなく出来るだろう」と考えている時間にも、時々刻々と人間は年を取ります。これは問いが間違っているのです。必ず年を取っていく人間が、「どうしたら年を取らなくなるか」と考えること自体が、間違いです。

どうように、自力しか持ち合わせていない者が、「どうしたら自力でなくなるのか」と考えるのが間違いです。

どうにもならないことにいつまでもこだわるよりは、本願の仰せを聞いて下さい。自力の心もまた自分です。どうしようもない自分をそのまま救うと呼びかけておられるのが南無阿弥陀仏の仰せです。
どれだけ嫌になっても、私は私以上にも、私以下にもなりません。私の中をどう突っついても叩いても、信心は生まれません。

(86)
弘誓のちからをかぶらずは
 いづれのときにか娑婆をいでん
 仏恩ふかくおもひつつ
 つねに弥陀を念ずべし(高僧和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P593

上記のご和讃に「弘誓の力をかぶらずは」と言われています。本願力によらねば「いづれのときには娑婆を出でん」なのです。自分で自分が嫌になると思われますが、そんな自分にいつまでも付き合っている暇はありません。自分と付き合い、なんとかしようという心は、自力の心を持ったまま往生しようという心です。

嫌な自力は捨て去って、弘誓の力を被って娑婆を出る身になって下さい。必ずただ今救われます。