安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

追記:難信の法は、自力では何十年かかっても信じられない理由

前日のエントリーに追記です。
「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」について、正信偈大意には以下のように書かれています。

「弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」といふは、弥陀如来の本願の念仏をば、邪見のものと驕慢のものと悪人とは、真実に信じたてまつること難きがなかに難きこと、これに過ぎたるはなしといへるこころなり。(正信偈大意・浄土真宗聖典(註釈版)P1028・法蔵館の真宗聖典未収録)

「邪見驕慢悪衆生」は、「真実に信じ奉ること難きがなかに難きこと、これに過ぎたるはなし」といわれています。
邪見驕慢悪衆生といえば、私のことですから、私には「弥陀如来の本願の念仏」を「真実に信じたてまつること」が絶対に出来ないということです。

大無量寿経には「もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。*1」と言われています。
阿弥陀経には、「この難信の法を説く*2。これを甚難とす」といわれています。


凡夫にはとても難信の法が、「弥陀如来の本願念仏」です。南無阿弥陀仏一つで救う法であり、私の方で用意するものが一切いらない法です。


「難信だから20年、30年では得られないのではないか」というのが仮に「40年か、50年なら得られる」という意味ならば「難信の法」とか「甚難」とお釈迦様はいわれません。


しかし、その「難信の法」をお釈迦様も親鸞聖人も勧められています。実際に本願念仏を信ずる身にさせて頂けます。

実際に信ずる身にさせて頂けるのに「難中の難」となぜ言われるのか、何が「難」なのかといえば、自力で信じることはできないということです。疑情をもったままでは信じることは絶対に出来ないと言うことです。「邪見驕慢悪衆生」が、聖者になって信じるのではありません。疑情を阿弥陀仏に取って頂き、信ずる身にさせて頂くのです。本来信じることが出来ない「邪見驕慢悪衆生」であることに変わりはありません。


愚禿鈔の、阿弥陀経の解説部分に、以下のようにあります。

難易に二とは、
一には難は疑情なり。二には易は信心なり。(愚禿鈔(上)・浄土真宗聖典(註釈版)P504 )

本願に疑いをもって信楽となることはできません。本願に疑い晴れなければ、信心となりません。

「易は信心なり」と、信心のことを易しいといわれるのは、阿弥陀仏の方から差し向けて下さる信心だからです。

至誠心について、難易対 彼此対 去来対 毒薬対 内外対
難易対
難とは三業修善不真実の心なり、
易とは如来願力回向の心なり。(愚禿鈔(下)浄土真宗聖典(註釈版)P539

愚禿鈔の下巻に至誠心について書かれている部分です。至誠心は、観無量寿経にとかれている三心の一つです。至誠心、深心、回向発願心の三心を具足しないと往生は出来ないといわれています。
この至誠心を、自力で起こすと解釈した場合が「難」で、他力によって起こされる心であると解説されたのが「易」です。

「難とは三業修善不真実の心」とあるように、わたしの三業で善を修めても、不真実の心の私には「至誠心」という誠の心になることは難しいです。
「易とは如来願力回向の心なり。」とあるように、阿弥陀如来の本願力回向の心だから、易しいのです。私の方で用意するものがないので易しいのです。


信楽に簡単になれないだろう、20年や30年では得られないだろうというのは、自分の三業で善をして、また不真実の心を真実の心にしようとしているからだと思います。
如来願力回向の心であると聞いても疑っているからです。自力の心でもって、如来願力回向の心を疑っている間は絶対に信楽を受持ことはできません。

疑いを捨てなさい、如来回向の信心を信じなさいと勧めておられるのが「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」と言われているところです。

*1:浄土真宗聖典(註釈版)P82

*2:難信の法・・自力をもっては決して信ずることができない法門の意で、この経に説かれた念仏往生の教えを指す。この教えは、世間の道理を超越しているから、世間の常識や自力心では、はなはだ信じ難い法ということ。そのことはまたこの法の尊高をあらわしている。浄土真宗聖典(註釈版)P128