安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「一心に正念にして」が条件となるのではないでしょうか?(うおーんさんのコメント)

うおーんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「一心に正念にしてただちに来たれ」ですが
「一心に正念にして」が条件となるのではないでしょうか?(うおーんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110825/1314258150#c1314426805

このコメントについて林遊さんからコメントを頂きました。有り難うございました。

お尋ねの件について結論から言いますと、「私にこれをせよ」という条件ではありません。本願を信じさせ、念仏させるといわれています。
以下は、愚禿鈔から引用します。

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、
「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。
(略)
「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行*1なり、金剛不壊の心*2なり。(愚禿鈔下・浄土真宗聖典(註釈版)P538

「一心」は真実の信心であり、「正念」は第18願であり、第18願の行信のことだといわれています。
「一心」も「正念」も私の心をこのようにしなさいということではありません。

「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。

とあるように、「汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん」はすべて阿弥陀仏の本願の内容を言われたものです。阿弥陀仏の本願は、「○○をしなさい、そうすれば助ける」「○○できたものを救う」という本願ではありません。
条件があると救われない私のために、「直ちに来たれ」と呼びかけられているのです。
「一心に正念して」とは、その仰せを疑い無く聞いた信心のことです。

「直ちに来たれ」は文字通りの意味しかありません。「何か条件があるのではないか?」と思うのは、自力の計らいです。「直ちに来たれ」の仰せを聞いて、ただ今救われて下さい。

*1:十地の菩薩が修める十波羅蜜の行。ここでは本願の大行を指す。

*2:金剛のように堅く、破壊されることのない信心。