前回の記事anjinmondou.hatenablog.jp
について、記事にする前にPeing-質問箱-に頂いた質問です。
質問箱には以下のように書きました。
二河白道の譬えでは「汝一心正念にしてただちに来たれ」とあります。
お尋ねの文章の方が合理的かと思いますが、一心というのは二心(計らいなく)ということなので、合理的には無理に感じる言葉で喚ばれているのが阿弥陀仏です。
これに加えて書きます。
二河白道の譬えでは、前の記事にも書きましたが、西岸の上から、このように呼びかけられます。
また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(顕浄土真実信文類 (本) - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P224)
「計らいが捨てられません」というのは、「計らい」というものに囚われて、それを自分でどうにかしなければならないという考えです。また「計らいが捨てられないままの汝を救うからそのまま来たれ」というのも「計らい」に囚われた考えです。
自分の有り様と救いを関係づけるのは二心です。それを関係づけるなと聞いても、関係づける考えがやめられるものではありません。
しかし、二河白道の譬えは続いてこのように書かれています。
この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして(同)
東の岸の人(釈迦如来)のお勧めと、阿弥陀仏の喚び声を聞いて、白道を進んでいったと書かれています。
「どうやって疑いを捨てたのか」「どうやって一心になったのか」というのも計らいです。「なんじ一心正念にしてただちに来たれ」と聞いたのが、一心ということです。
「計らいが捨てられない汝」ではなく「汝を救う」のが阿弥陀仏の喚び声です。