安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「どうしたらその勅命にしたがえるのか、どうしたら「直ちに来たれ」にしたがえるのか」と思ってしまいます。でも、こう思ってしまうこと自体が「勅命にしたがっていない」ということになるのでしょうか?」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-より

2022-09-11の本編で取り上げていただきありがとうございます。 | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。

お尋ねされていることは、「右へ行きなさい」という言葉に対して、「どうしたら右に行きなさいという言葉に従えるのか?」と同じことだと思います。
勅命を眺めるのではなく、聞いてみて下さい。

お尋ねの「こう思ってしまうこと自体が「勅命にしたがっていない」ということになるのでしょうか?」については、「勅命にしたがっていない」ということになります。

勅命というのは、分解すると「言葉」と「こうしなさいという気持ち」があります。お尋ねの内容からすると「言葉」は聞いたけれども、「気持ち」は受け取っていないということになります。

学校で先生から「廊下を走らないで」といわれても走り続ける小学生がいたとすると、その小学生は耳で「言葉」は聞いていますが「走らないで欲しい」という気持ちを受け取っていません。どうしてその「走らないで欲しい」という気持ちを受け取らないかというと、「走りたい」という自分の気持ちが優先しているからです。

また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(顕浄土真実信文類 (本) - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P224)

二河白道の譬では、このように阿弥陀仏が喚ばれていると書かれています。

これを文字として読めば、「とうしたら従えるのだろう」となります。パソコンやスマートフォンの画面に写る文字は、「情報」として脳が取り扱っているのだと思います。「情報」は、それを受けるかどうかは「私」が主体になります。しかし、「勅命」といったときには、主体は阿弥陀仏であって、私が受けるかどうかという主導権はありません。「聞く」一択です。


「ただちに来れ」というのは、阿弥陀仏の願いが声となったものです。その声になったところの「願い」を聞いて下さい。「従う」という言葉からは、何か「方法」を想像してしまうと思いますが、「願い」は聞く方法はありません。「聞く」だけです。

「直ちに来れ」と聞いて、直ちに救われて下さい。