安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

後生をお任せしようとしている阿弥陀仏はあくまで私の頭や心が作りだした阿弥陀仏であり、言わば偽の阿弥陀仏です。阿弥陀仏のことも浄土のことも全く分からない私にはそれが限界なのですが、とても不安な気がします。こんなことでよいのでしょうか?(アドウチさんのコメント)

アドウチさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私が 救いを委ねよう、後生をお任せしようとしている阿弥陀仏はあくまで私の頭や心が作りだした阿弥陀仏であり、言わば偽の阿弥陀仏です。阿弥陀仏のことも浄土のことも全く分からない私にはそれが限界なのですが、とても不安な気がします。こんなことでよいのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110828/1314479868#c1314621344

阿弥陀仏の本願は、「私の相を思い浮かべなさい、そうすれば助ける」とはいわれていません。「本願を信じ、念仏申さば仏になる」と誓われた本願です。

アドウチさんの言われるように、自分で思い浮かべた阿弥陀仏は、私の想像の産物であって本当の阿弥陀仏ではありません。私が思い浮かべた阿弥陀仏に、私がお願いしたことが信心ではありません。

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文・浄土真宗聖典(註釈版)P678

信心は、「如来の御ちかひをききて疑うこころのなき」ことです。また、聞くと言うことは「本願をききて疑うこころなき」ことです。

如来の誓いは南無阿弥陀仏となって私に呼びかけられています。その南無阿弥陀仏を、疑い無く聞いたことを信心といいます。
自分で思い浮かべると言っても、「観無量寿経」を何度もよく読んだことがある人と、一度も読んだことのない人ではその思い浮かべる内容は違います。そうなると、経典を読んだことの有無や、智慧によって思い浮かべる阿弥陀仏が異なることになります。

「阿弥陀仏を思い浮かべたら救われる」とすれば、思い浮かべられる人とそうでない人にいろいろな差別が出来てしまいます。どんな人でも等しく浄土に往生させるために、私の智慧や読解力に影響されない南無阿弥陀仏の声となって、私に呼びかけられているのが阿弥陀仏という仏様です。

思い浮かべられないことを悩む必要は全くありません。阿弥陀仏は声になられた仏様ですから、本願の仰せを疑い無く聞いてただ今救われて下さい。