8月21日富山県射水市の親鸞会館で二千畳座談会が行われました。参加された方から頂いた情報で、気になるところを紹介します。
質問者の質問を変えて質問に答えない。
いつものことですが、今回もでてきた質問を勝手に変えて、その変えた質問について一日話をするという内容でした。
質問:「一念多念証文のお言葉より、弥陀の方便と真実の関係を重ねて聞かせて頂き、親鸞聖人をはじめ歴代の善知識は私たちに、弥陀の真仮を明らかにすることに生涯をかけられ、私たちは弥陀の真仮の水際を聞き抜くため、それを正確に伝えるために生きていると受け取らせて頂きました。そこで、親鸞聖人の教行信証は三重廃立を教えたと聞いておりますが、弥陀の方便・真実と三重廃立との関係についてご教示いただけないでしょうか?特に、真仮廃立のご教導において、捨てねばならない仮とはどういうことでしょうか?」(8月21日二千畳座談会の質問)
このような質問がでるのも、この二千畳座談会や機関誌で、「仏教で方便とは真実に導きいれるために絶対に必要なもの」*1と教えているからです。
質問の要旨は、いつも会長が教えていることは、「仮(方便)を捨てて、真に入れ」の廃立の教えと合わないのではないかということです。
それに対して会長は以下のように答えます。
会長「この質問は、三重廃立についての質問です。だから三重廃立について話をします」
アシスタント「・・・・」
会長「そうじゃないのか」
アシスタント「その通りです」
このような始まりで、一日三重廃立について話をしていきました。
会長「廃立だけど、仮がわからないと真がわからないでしょ」
問題の真仮廃立について、「仮を捨てて真に入れ」と説明した後、結論として、すべてをひっくり返すような発言をします。
会長「仮がわからないと真がわからないでしょ。真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す。当たり前でしょ(略)だから仮からしか真に入れないのだ」(8月21日二千畳座談会)
これは全くおかしな理屈です。
「外道がわからないと内道がわからない」
「聖道仏教がわからないと、浄土仏教はわからない」という理屈はなりたちません。
そもそも、仮がわかれば真がわかるというのは、仮の延長上に真があるということになり、全く廃立にはなりません。
教行信証6巻は、前5巻が「真実」を明らかにされ、最後の化身土巻で「方便」を明らかにされています。
「方便がわからないと真実がわからない」のなら、教行信証の最初に方便について書かれているはずですが、そんなことは全くありません。
まず、真実を明らかにされて、その後方便を示すことによって真実がより真実であることを明らかにされたのが教行信証です。方便を捨てて真実に入れが親鸞聖人の教えです。
また、教行信証6巻のうち5巻が真実について書かれていると言うことは、単純計算で5/6=83%が真実で、方便について書かれたのは残りの17%ということになります。
しかし、今回の二千畳座談会は99%が方便の話です。また、座談会は過去1年以上一念多念証文の「八万四千の法門は」の話をしており、内容は100%方便の内容でした。
そのように話をしながらも「今日一日で教行信証の内容を話した」といっているのが、本当に親鸞聖人の教えを正しく伝えている人なのか、現在会員の人はよく考えてみられたらよいと思います。
仮の話しかしないのですから、「真仮の水際」はどれだけ真剣に聞いてもわかりません。話の中に「水際」がないのですから。