安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心決定すると曠劫多生迷ってきた自己がハッキリ知らされる」と言ってしまった浄土真宗親鸞会高森顕徹会長(2月19日テレビ座談会に参加した方の情報より)

2012年2月19日親鸞会主催の「なぜ生きるについてのテレビ座談会」が、各地で行われました。飛雲にも書かれていますが、「雪で中止」というのは、私が過去親鸞会にいた頃には聞いたことがない理由です。
よく考えて見ると、テレビ座談会ができるようになったから「インフルエンザが流行っている」「雪が降った」などの理由で、親鸞会館の行事はよく中止になっています。なぜなら、大雪の日に親鸞会館で行事を行うよりも、各地でテレビ座談会を開催したほうが参加者が多くなり、親鸞会の収入も増えるからです。そうなると、過去にあれほど大雪が降っても「参詣せよ」と言っていたのは「金もってこい」の意図だったことが判ります。

参加された方から頂いた情報より、気になったところを紹介します。
テレビ座談会の冒頭から各地の中継所をつないで、「どれだけ豪雪か」をアピールしてはじまっていましたが、内容は「雪で中止」以上にとんでも話になっていました。

今回の質問は以下のものです。

(質問)
なぜ生きる 2部8章 P177 6行目

なぜ生きる

なぜ生きる

人生の目的どころではない、多生永劫の目的を果たさせていただいたという、美しい感激に満ちた告白であることが知らされる。

とお書き下されています。
ここには人生の目的と多生永劫の目的という二つの言葉が使われています。私は今生の救いを求めているのですが、なぜ弥陀に救われるとそれは多生永劫の目的であったと知らされるのかお聞きしたく思います。

これに対する会長の答えは

「信心」ということがわからないとわからない(テレビ座談会での高森会長の発言)

というものでした。
その「信心」は、「仏願の生起本末を聞きて疑心有ることなし」と説明をしますが、さらに高森会長は「生起に疑心がない=機の深信、本末に疑心がない=法の深信」と話を進めます。

そして、機の深信から、信心決定すると「多生永劫迷ってきた自己が知らされる」と説明をします。

ハッキリするのは二種深信が立ったとき。自分というものがあのようにハッキリするわけですね。じゃあ、そのハッキリする内容は、曠劫よりこのかた生まれ変わり死に変わり苦しみ悩み続けてきたと、今日まで、また今からもということがハッキリするのですから、多生、曠劫ということはこのときに初めて深信、ハッキリするのです。
多生ということがハッキリしないという今日の質問だったから、ハッキリするのは二種深信、親鸞聖人の信心はどういうものかわかれば、多生ということはハッキリする。だら、親鸞聖人は教行信証の中にも「噫、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく」あこにも多生ということを一杯使われているのです。ハッキリしたからです。今日の質問は、人生はわかるけれども多生と言うことはわからないということだから、今まで話をしてきたのです。(テレビ座談会での高森会長の発言)

これは、全く間違った説明です。
機の深信のご文は、以下の通りです。

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P218)

ここで言われている内容は「自力不生」であって、自らの力では往生浄土することができないことを、「現にこれ」からいわれているものです。何も「曠劫よりこのかた」の自己が知らされるという不可思議な体験をいわれたものではありません。そもそも、死ぬまで煩悩具足の凡夫に三世を知る智慧などあるはずもありません。

高森会長の話を要約すると、「信心決定すると、三世が知らされ、曠劫多生迷ってきた自己がハッキリと知らされる」のだそうですが、そんなことは「仏のさとり」ならあるのでしょうが、「信心」にはありません。

阿弥陀仏の本願を聞いて疑心あることなしの信心を、あたかも「さとり」のように言う高森会長の説は、やはり浄土真宗とはとてもいえません。