安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

何がなんでも三願転入の話にもっていきたい高森顕徹会長(2011年11月20日二千畳座談会参加者から頂いた情報)

今回のエントリーに書くことは表題の通りです。
参加者から頂いた情報より気になったところを書きます。

今回の質問は11月6日の親鸞会館の法話の内容についての質問でした。

弥陀に救われるまでの体験は、親鸞聖人が三願転入のご文で書かれていますが、覚如上人、蓮如上人はどうしたら救われるかは、書かれていないと先日のご法話でお聞きしたように思います。蓮如上人の領解文・御文章はそのことが書かれているのではと思ってしまったのですが、どこに私の誤解があるのか御教導よろしくお願いいたします。(2011年11月20日二千畳座談会の質問)

実際にこのようなことを高森会長は11月6日の法話で話をしているのですが、それに対する会長の答えは、「そんなこと言っていない」でした。

以下座談会の内容から、一部紹介します。

ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめるためには、というのは無碍の一道に出させるため、いろいろな聖教を書き残しておられるのですから、親鸞聖人は書かれているけれども、覚如上人や蓮如上人は書かれていないということは、毛頭間違いです。全くの間違いですから、そこをはっきりと親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も、南無阿弥陀仏を信ぜしめんがための教えばかり書かれているということですね。
親鸞聖人はいわれているけれども、覚如上人や蓮如上人は教えておられない。そんなことをどこから聞いてきたのかな、私の言い方のどこがそのように理解されたのかなという反省は朝からしきりとしているところであります。
どこにあったと思うかな?(アシスタントに)


アシスタント「親鸞聖人の三願転入がいかにすばらしいお言葉かと聞かせてもらったときに、そう思われたと思います。」


三願転入の話をしたからか?


アシスタント「聞かせて頂く側の責任だと思います。


三願転入の話をしたから誤解したって言うことやろ。しなきゃよかったということではないか。
一番聞きたいことでもお前いわなんだらこんなことにならなんだと思っているだろ?(2011年11月20日二千畳座談会・午後前半・会長の発言より)

こういって、結局この日一日も、南無阿弥陀仏のいわれも、捨自帰他もなく、三願転入とは一体何かと、高森会長独自の「19願から20願を通らないと18願に出られない」という三願転入の話になっていました。

仮とというのは仮の門ということです。ある家に行くとまず門を通らないとその家の玄関には入れません。玄関に入らないと奥座敷に入れません。ここが奥座敷なんです。無碍の一道。ここへいきたいんです。そのためには、まず門をくぐらないと行けないんです。(2011年11月20日二千畳座談会・午後前半・会長の発言より)

例えまでもってきて、とにかく仮門をまず通らねばらならない、仮門とは修諸功徳だから善をせよとの話がまた続いて行きます。

親鸞聖人は常に、仮門をまず通りなさいとは言われていません。それは覚如上人も蓮如上人も同様です。
仮門・真門についても、捨てよ、離れよと常に教えておられます。

またいはく(同 一二八五)、「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と。(教行信証行巻よりー選択本願念仏集引文(三選の文)浄土真宗聖典(註釈版)P186

現代語はこちら

聖道門は閣きて、「選んで」浄土門に入れ。
雑行(仮門)は抛ちて、「選んで」正行に帰すべし。
正・助二業のなかに、なほ助業(真門)を傍らにして、「選んで」正定をもつぱらにすべし

三回「選んで」とあるので、「三選の文」と言われています。
このご文は法然上人の選択本願念仏集を、親鸞聖人が引文されたものです。教行信証全体は、法然上人の選択本願念仏集に明らかにされた、阿弥陀仏の18願の教えを書かれたものです。それは、法然上人の選択本願念仏集を引用されたのが、この行巻に出てくる「「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と、「三選の文」の二つしかないことに表されています。選択本願念仏集を解説するために、選択本願念仏集を引用する意味はないからです。

わずか二つしか引文されなかった選択本願念仏集のご文は、それだけ親鸞聖人が大切にされている箇所です。そこには、「仮門を通り、真門を通らねば、選択本願に入れない」とは言われていません。その逆で、仮門は抛ち、真門は傍らにせよと言われています。「選んで」とは、選択肢がいくつかあったとしても、一つを取りほかは捨てよということです。

今回の座談会で、会長が言いたかったことをまとめると、以下の二つになります。

  1. 「親鸞会的」三願転入は確かに、覚如上人も蓮如上人もいわれていないが、そう言って参詣者を騙そうとした。それを聞き分けて質問してきた人は「聞き間違い」である。「私はそんなこと言っていない」
  2. 親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も「親鸞会的」三願転入を教えられたと思わせたい。

これだけ三願転入に固執するのは、現在展開されている「芳野作戦」のためだと思われます。「芳野作戦」とは、全国に親鸞会の会館を建てる作戦だそうです。すでに、能登会館、小矢部会館、四国会館が完成しました。11月6日の親鸞会館法話では、「会館建立功労賞」なるものを設けて、会館建設に協力した人を表彰していました。

現在は全国に会館を建てることが、親鸞会の活動方針になっています。そのために必要な「お布施」を募るためには「親鸞会的」三願転入が捨てられないのでしょう。

「南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめ」るためには、会館を建てるお布施は必要有りません。11月20日の二千畳座談会に参加された方で、このエントリーを読まれた方には、高森会長の意図することは「南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめ」るためではなく、「会館を一つでも多く建てたい」しかないことに気がついていただきたいと思います。
気が付かれたなら、一秒でも早く離れることが、真の仏弟子です。

仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P218