安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

追記:「真仮を知らない」について考えて見る。

親鸞会でよく言う「真実が分からんものには、真仮は絶対にわからん」について(セイウチさんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について)の追記として、「真仮を知らない」について考えて見ました。

親鸞会で「真仮を知らない」が使われる用例として、以下のものがあります。
例)
1.真仮を知らない=「信心決定していない」
「今回の話は、真仮を知らないと理解することは出来ない。真仮を知られた高森先生だから説くことが出来るのだ」

2,真仮を知らない=「方便が必要であることを知らない(理解していない)」
「18願だけでいい、19願を説く必要はないというのは、真仮を知らないもののいうことだ」

このように親鸞会で「真仮を知らない」は、主に「信心決定していない」とか、「方便が必要であることを知らない」という意味で使っています。

特に2番目の意味で親鸞聖人が仰ったことはありません。「真仮を知らない」と親鸞聖人が仰るご文の一つを紹介します。

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。(教行信証化土巻末・浄土真宗聖典(註釈版)P471

聖道仏教の人に対して「教に昏くして真仮の門戸を知らず」と言われています。
親鸞会でいうような意味で当てはめると、「信心決定していない」はなんとなく意味が通りますが、「方便が必要であることを知らない」では意味が通りません。
なぜなら、方便である聖道仏教を修行している人に対して、「方便が必要であることを知らない」と言っているからです。

聖道門の人の立場では、聖道仏教の教えも修行もみな「真実」と思っています。親鸞聖人は、真実ではないものを真実と思っている人に対して「真仮の門戸を知らず」と言われているのです。廃すべき方便を立てるべきものと信じている人に対して、真仮を知らないと言われています。

親鸞会の主張する「19願の行はやらねばならない」を真実と思っている人は、方便を真実と思い込んでいるということです。19願で勧められる諸善は、雑行です。雑行を廃して、念仏一つを選び取られたのが阿弥陀仏の18願です。
阿弥陀仏が、選び捨てられた雑行を、「やっぱり必要」と思うのは、廃すべき方便が分からないこということです。

親鸞聖人が真仮を知らないと言われたのは、何が方便で何が真実か知らないと言うことです。廃すべき方便と立てるべき真実の区別がついていないということです。
「雑行を捨てよ」と聞いても、その通りにしないどころか、人に勧めているのは、「私は真仮を知りません」と言っているに過ぎません。