安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

罪滅ぼしの本願ではありません(マスターさんのコメントより)

マスターさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
他の方のコメントも有り難うございました。

私も今にでも救われたい藁にもすがる心境です。このお盆期間中もずっとそうです。
心労のため胸がはりさけそうなくらい苦しんで寝込んだり、わかっちゃいるけどやめられない自分の悪業の数々に涙してました。
家族や信じてくれている人をこてんぱんに裏切り泣かせてもきました。
南無阿弥陀仏を受け取らせていただいたならば、「なにもかもがが阿弥陀様のお手回しでした。先手は弥陀でした。私の心が永らくはねつけてしまっていて申し訳ありませんでした」
となるのはつねづね聞かせていただいております。
コメントで励まして下さる林遊さんやとくよしみねさん、がすしつがかりさんのおっしゃることもよくわかります。
本当にありがとうございます。
また、上記コメントの「一」さんのおっしゃることも、南無阿弥陀仏を受け取っていない人が持つ素朴な思いとして、よくわかります。
私がこの世に生を受けた罪滅しとして自分も救われたいですが、世話になった方々に南無阿弥陀仏を受け取っていただきたいというのが今の私の想いです。(マスターさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110815/1313397940#c1313474121

マスターさんが大変苦しまれていることはよく分かりました。
生きていく上で、いろいろな人に迷惑をかけてこられ事を大変悩まれていることはコメントから伺えました。そこで、マスターさんは、「罪滅ぼしとして自分も救われたいですが、世話になった方々に南無阿弥陀仏を受け取っていただきたい」と仰っています。
ご自分の救いよりも、人に対する罪滅ぼしについての気持ちが強いのではないでしょうか?

阿弥陀仏の本願は、罪滅ぼしをさせるという本願ではありません。いろいろな事情で、罪を造らざるを得ない悪人を、必ず浄土に生まれさせると誓われた本願です。

まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。(御文章1帖目3通・猟漁

「かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願」です。私の罪に関しては、阿弥陀仏の救いと関係がありません。
どれだけ罪が重くても阿弥陀仏は救って下さいます。また、どんな罪を造ってきたといって、慈悲に強弱があるのではありません。

阿弥陀仏の本願は、浄土に生まれさせたいという一心です。ですから、「ただ今救う」「必ず浄土に生まれさせる」と呼びかけられています。「罪滅ぼしをしてやる」とはいわれていません。

マスターさんの文面から、「こんな自分が助かってよいのか」という気持ちをもたれているのではないかと感じました。しかし、阿弥陀仏の救いに資格も条件もありません。ただ今救うと呼びかけられる本願力を聞いて下さい。

罪滅ぼしは、そのあと考えられたらよいことです。先に聞くのは阿弥陀仏の願いです。阿弥陀仏は一心に、「我が浄土に生まれよ」と呼びかけられます。呼びかけられている私も一心にその願いを聞くのです。いろいろと、心で思うこともあるでしょうが、ただ今救う本願を聞いて下さい。
お世話になった方に聞いてもらいたいという気持ちはよくわかりますが、まず本願を聞いて下さい。その先のことは、それからです。