安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏の本願を聞けば聞くほど、こちらが拒否する必要性は全くないとわかるのですが、それでもまだ救われていないのは、心のどこかで本願を拒否しているのでしょうか。」(Peing質問箱より)

質問箱より

阿弥陀仏の本願を聞けば聞くほど、こちらが拒否する必要性は全くないとわかるのですが、それでもまだ救われていないのは | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。

「拒否」という言い方が適当かどうかはわかりませんが、結果として助ける手をはね付けているということになります。阿弥陀仏の救いについて、こちらは拒否していないという前提で考えますと、それでも救われないというときに阿弥陀仏の救いはどこに働いているのでしょうか。
拒否しているから働かないとすると、永久に私に働かないということになります。本当はただ今働いています。それを聞き入れたのが救いです。

これに続いて、質問を頂きました。

質問箱より

6/7の続きなのですが、こちらが本願を拒否している、拒否してないなどと、自分の思いなどは気にせず、本願が今自分に | Peing -質問箱-

こちらには質問箱に以下のように書きました。

「私がこうなったら救われる」という考えは、私が変化しない限り阿弥陀如来は動いてくれないという前提になります。すでに私に働いて下さっていると聞いて下さい。

自分はなぜ救われないのか?と考える時

お尋ねされた内容からすると、阿弥陀仏の本願そのものには問題ないと思っておられるのだと思います。「自分はまだ○○できていないので少し待ってください」という形で、阿弥陀仏の本願を拒否しているつもりはないとのことでした。
それでもまだ救われないという時に、何が原因なのだろうか?と考える時に、自分の中に原因を探すことはよくあります。他人のせいにするよりは健全な考え方かもしれませんが、自分の中に原因を見つけてもどうしようもないことの方が多いのではないでしょうか?

例えば、「自分は集中力がないから」とか「自分は罪悪観が見つめられないから」などということが、原因だとしたところでこれは中々どうにもならないことです。もし、それが原因だとすれば「集中力のある人」「罪悪観を見つめる事ができる人」でなければ救われないことになってしまいます。


「救う」のは阿弥陀仏

阿弥陀仏の本願は、私を救うと阿弥陀仏が願われてすでに私を救うために働いておられるものです。そのすがたがただ今の南無阿弥陀仏です。

それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。
これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。(御文章 (五帖) - WikiArc8通・五劫思惟・浄土真宗聖典註釈版P1195)

「自分が拒否しているから阿弥陀仏は助けて下さらない」という前提は、現在助かっていないことを後付けで理由を考えているにすぎません。「もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」というのが阿弥陀仏の本願です。

阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏となって「私をたのめ、ただ今救う」とよびかけられています。そこを聞かずに、自分の心の様子を眺めていても、そこから出てくるのは自分の心しかありません。

ただ今助ける南無阿弥陀仏にただ今救われてください。