安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「法蔵菩薩はなぜ もっと 私が信を取りやすい本願を建てて下さらなかったのだろうか」(アドウチさん・マスターさんのコメントより)

アドウチさん、マスターさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
それぞれに林遊さんからコメントを頂きました。有り難うございました。

(略)
「法蔵菩薩はなぜ もっと 私が信を取りやすい本願を建てて下さらなかったのだろうか」ということです。
法蔵菩薩の力を持ってしても、これが限界だったということでしょうか。
こんな質問をするのは法謗罪なのでしょうか。(アドウチさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110812/1313132798#c1313320055

アドウチさんと似たようなことを思います。
現在苦しんでいる人が大勢いるのだからきれいさっぱりまとめて救ってくださらないのですか、という素朴な思いです。
阿弥陀仏の本願を聞こうとしない人には無理強いはしない、というような言い方をされる場合もあるようですが、これも淋しく感じます。
南無阿弥陀仏、わかる人にはわかります、受け取ろうとしない人にはわかるまで、時節到来するまで見守るしかないというようなことをいう人もいますが、これも無慈悲というか自分さえ助かればという感じでいまいち腑に落ちません。
それとも要は、つべこべ考えずにおとなしく素直な感謝の気持ちで毎日、お念仏を称えて生きていけば良いのでしょうか。(マスターさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110812/1313132798#c1313368359

まず、アドウチさんのコメントの「なぜもっと私が信を取りやすい本願を建てて下さらなかったのだろうか」についてですが、これ以上信を取りやすい本願はありません。
なぜなら、私の方で何の造作も必要とされない本願を建てられたからです。

アドウチさんのいわれる意見は、「何もいらないは分かりにくいから、何か条件を設定してくれた方がわかりやすい」と言われているのではないでしょうか?

しかし、なにか条件を設定した場合、本願に漏れる人が出てくるので阿弥陀仏の本願は、名号一つで救うという願を建てられました。

国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。
布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。
 これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて(唯信鈔・浄土真宗聖典(註釈版)P1340)

どれだけ素晴らしい浄土であっても、生まれることが難しい浄土であるならば本願を建てた目的に合わなくなってしまいます。そこで、どうやって浄土往生を遂げることができるかについて、なにかの「行」を条件とすると、どんな「行」であっても全ての人ができる行はありません。
布施・持戒を条件とすれば、それが出来ない人は本願に漏れてしまいます。忍辱・精進を条件とすれば、それができない人は本願から捨てられてしまいます。他のいかなる「条件」も同様に、「条件」を設定すると、漏れる人が出てきてしまいます。
そこで、どんな人でも浄土に生まれることが出来るように、南無阿弥陀仏一つで浄土に往生できるように五劫の間考えられたと言われています。

仏願の生起本末について、名号を薬にたとえ、私を病人にたとえられる話があります。
病人の病気を治すためにできあがった薬を目の前にして、「飲まないで治る薬はないのか?」といっているのが、アドウチさんのお尋ねです。
薬を飲むのと、病気が治らないのとどっちが大変なのでしょうか?
薬でなければ治らない病気は、それ以外の方法で治そうとしても無理です。浄土往生は、本願力に拠らねばなりません。南無阿弥陀仏以外に浄土往生の方法は無いのか?というお尋ねならば、「他にはありませんので、南無阿弥陀仏をそのまま聞いて下さい」というより他にありません。

マスターさんのコメントについては、一つ思ったことですが

現在苦しんでいる人が大勢いるのだからきれいさっぱりまとめて救ってくださらないのですか、という素朴な思いです。(マスターさんのコメントより)

この中にマスターさんは入っているのでしょうか?
先ほどの薬の譬えでいえば「薬をのまずに治すことは出来ないのかしら?」と言っている人のように思えます。それは「病人」ではなく「医者」の発言です。
マスターさんが観察者ならば、これ以上私は何もいうつもりはありませんが、ご自身のこととしてお尋ねならば、またコメントをお願いいたしまします。