安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「そのまま」は「何もしない」ではありません

前回の補足エントリーです。

「そのまま」は「何もしない」ではないんですよね。(でんさんのコメントより)

蓮如上人は、雑行をすてて弥陀をたのめと仰っています。
何もするなと言う言い方はされていません。

夏御文章(げのごぶんしょう)は、蓮如上人が84歳の時にご制作されたものです。

そのいはれをただいま申すべく候ふ。御耳をすまして*1よくよくきこしめし候ふべし。
 それ安心と申すは、もろもろの雑行をすてて一心に弥陀如来をたのみ、今度のわれらが後生たすけたまへと申すをこそ、安心を決定したる行者とは申し候ふなれ。(夏御文章1通・浄土真宗聖典(註釈版)P1211)

「なにかをしたら」「しなかったら」というのは、そのような自らの知恵を持って往生の足しにしようという心です。自らの分別、智慧という「行」をもって、救われようというのですからこれも雑行です。
上記の文章の後に

されば聖人(親鸞)の『和讃』(正像末)にも、「智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり」(三五)

とご和讃を引用されています。私の智慧や計らいで救われるのではありません。「法蔵願力のなせるなり」です。阿弥陀仏の本願力によって救われるのです。
雑行をすてて、必ず救うという阿弥陀如来の救いにまかせるのが、「後生たすけたまへと申す」ことです。
「雑行を捨てたぞ」「だから助けなさい」というものではありません。
「そのままなんだから、こちらはなにもしないぞ」というのも、それはわがままであって、そのままではありません。
手助けも、条件もいらない南無阿弥陀仏で救われます。

*1:御耳をすまして・・余念をまじえずに。専心に。