安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

南無阿弥陀仏があるから私は大丈夫だと自分を安心させようとする心について(頂いた質問)

今私の心に現れてくださる南無阿弥陀仏があるから私は大丈夫だと自分の心を安心させようとしている心があることに気がつきました。(略)自分は法話を縁にして聞いた通りの救いの世界をまた作り上げていました。(頂いた質問)

自分の心で南無阿弥陀仏をあてにする心を用意せよという南無阿弥陀仏ではありません。南無阿弥陀仏には、信じる心(信・機)も助けるお働き(行・法)も一体となっているのだと蓮如上人は教えておられます。

このゆゑに南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆゑに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏と申すこころなり。この道理あるがゆゑに、われら一切衆生の往生の体は南無阿弥陀仏ときこえたり。(御文章4帖目14通)

蓮如上人は、「弥陀をたのむ」信心のことを、機といわれています。そして、「たのむ衆生をたすけたまふかたの法」(はたらき)が阿弥陀仏(法)だといわれています。
弥陀をたのむ信心は、阿弥陀仏によって発されるものです。そのため、弥陀をたのむ信心を獲得した人は、即時に阿弥陀仏の願力によって摂取されます。

そのことを顕しておられるのが南無阿弥陀仏の六字です。
またそのことを蓮如上人のお歌には以下のようにいわれています。

たのませて たのまれたまふ 弥陀なれば 
   たのむ心もわれとおこらず(蓮如上人)


阿弥陀仏の方からいえば「たのませて」下さる南無阿弥陀仏です。
私の方からいえば「たのまれたまふ」南無阿弥陀仏です。阿弥陀仏が我にまかせよと仰せ下さり、仰せの通り私が疑い無くまかせたのが信心です。私から言えば「たのまれたまう弥陀」が、南無阿弥陀仏であり。信心です。そのため「たのむ心もわれとおこらず」といわれるように、私の方から「たのむ心」を発したり、用意したりするものではありません。全て他力廻向される救いです。

そうして、弥陀をたのむ信心の行者を摂取して捨てられないのが南無阿弥陀仏です。「念仏衆生摂取不捨」と観無量寿経に説かれていますが、南無阿弥陀仏でいえば、念仏衆生が「南無」であり、摂取不捨が「阿弥陀仏」です。

このように南無阿弥陀仏という名号のお働きが、私の信心(機・南無阿弥陀仏)となり、信心の行者を捨てられない(念仏衆生摂取不捨=南無阿弥陀仏)という利益を与えていくと蓮如上人が教えられています。

南無阿弥陀仏を受け取るにふさわしい心があると想定し、それに合わせようとするのも自力廻向です。あくまで阿弥陀仏の本願は先手の法であり、他力廻向の法です。
私が用意するに先立って、必ず救う法を用意して差し向けて下さいます。それを、私の方で「受け取るための準備」をしようとするのが計らいです。その計らいをすてて、ただ今南無阿弥陀仏と聞いて下さい。必ずただ今救われてください。