安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

私の称える念仏は『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』=『救ってください、救ってください』となっているようで、どうしても自分の願望が先に出て、『必ず助ける』の阿弥陀さまの声が聞こえません(頂いた質問)

私の称える念仏は『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』=『救ってください、救ってください』となっているようで、どうしても自分の願望が先に出て、『必ず助ける』の阿弥陀さまの声が聞こえません(頂いた質問)

南無阿弥陀仏と称えていても、阿弥陀仏に祈願する心で称えればそれは自力の念仏です。また、口で「南無阿弥陀仏」と称える以外に、「必ず助けるぞ」という声が別のところから聞こえてくるのでもありません。


南無阿弥陀仏のいわれを聞けばそれが、そのまま「必ず助ける」の喚び声ということです。南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏のお働きがそのものであって、それが私の口から念仏となって現れて下さるものです。ですから、具体的な「音声」として聞こえるのは、私の口から出て下さる念仏の声です。自分の声ではない不思議な声が、私の耳に音声として聞こえるのではありません。「音声」としては聞こえないお働きが、私を救って下さり、そのお働きが口から出て下されば「南無阿弥陀仏」という称名念仏となります。


南無阿弥陀仏というお働きは、阿弥陀仏が私を救おうというお働きですから、私の祈願や願望から出てくる言葉ではありません。親鸞聖人は、このお働きを「大行」といわれています。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版)P141

ここで南無阿弥陀仏のことを大行といわれ、「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳法海なり」と説明されています。私の願望や祈願には「もろもろの善法」も収まっていませんし、「もろもろの徳本」も備えていません。そのため、浄土に往生する手助けにもなりません。


南無阿弥陀仏の大行は、それ一つで私を救うお働きがありますから、私の願いをそこに足す必要はありません。そのお働きが、私の口から出て下さっているのが念仏ですから、念仏は私の行いではありません。

本来私の行いでない念仏を、私の行為と思い、さらに「念仏を称える」という行為を往生の役に立てようとおもうのが自力の念仏です。


自分の称えた念仏をあてにするのではなく、念仏を称えさせる南無阿弥陀仏のお働きを聞いて下さい。なぜなら、阿弥陀仏の本願は私の願いに応じて建てられたものではないからです。南無阿弥陀仏と私が称えているときには、お働きがすでに働いています。喚び声という言葉を使えば、喚び声はすでに届いています。その喚び声を無視して、「私の願いを聞いて下さい」と言っていてはいつまでたっても聞いたことにはなりません。


お願いしなければ助けて下さらないようは阿弥陀仏ではありません。祈願の気持ちになるのは、阿弥陀仏を疑っているからです。私の願いに先立って、常に「ただ今救う」と働いておられます。そのお働きを、まず聞いて下さい。

おまけ

今回のエントリーの内容にも多少関係ありますが、聞くということについて知らされることがあったブログの記事を紹介します。
避難勧告には従いましょう。