安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「仏願の生起本末」は、「生起を本から末」と読み替える高森会長(6月26日テレビ座談会より)

6月26日テレビ座談会の参加者より頂いた情報で、気になったところを書きます。
今回は、「歎異抄をひらく」の内容についての質問でした。

気になったのは、解説の中で仏願の生起本末についてアシスタントが話をしたところです。

アシスタント「阿弥陀仏の本願を仏願といいます。本願と言いますのは約束ですので、約束には必ず相手があります。阿弥陀仏の本願はどんな人のために建てられたのか、なぜ本願を阿弥陀仏は建てられなければならなかったのかということが、生起ということです。
そして阿弥陀仏は、どんなお約束をなされて、その結果はどうなったのかということが本末ということです。」


会長「本から末、全部と言うことだ。あんたねえ、私の話を本から末、始終を聞かねばならない。」
(中略)
アシスタント「阿弥陀仏の本願の約束の相手、どんな人に建てられたのか」


会長「それが本ですね。本が一番大事。本がわからないと末が分からない。それで、生起、本である生起で、午前中蓮如上人からお聞きしていました。生起、本を聞いてみよう」


アシスタント「十悪五逆の罪人も、五障三従の女人も・・」(6月26日テレビ座談会より)

仏願の生起本末の意味は、最初のアシスタントの説明が正しいです。

生起は、本願がどんな人のためになぜ起こされたのかということです。本末は、どのような本願を建てられて、その結果どうやって私を助けようと働いておられるのかということです。

しかし、アシスタントが正しく解説したところを会長は「生起=本」であると言い換え、「生起」を本から末に最後まで聞くことが、「仏願の生起本末を聞く」ことだと解説します。
この後、全ての人は諸仏に見捨てられた極悪人だという話が続きます。

会長自身がアシスタントの発言を否定せず、言葉を重ねて別の方向に誘導していますから確信犯です。

仏願の生起本末を聞けと親鸞聖人はいわれますが、上記の説明では「仏願の生起をしっかり聞け」ということになります。
歎異抄3章で言えば「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」ことを聞くのが、「仏願の生起本末を聞く」ことだと言っているようなものです。

こういうことから、「悪人と知ることが大事だ」とか「そのためには善をせよ」とか「悪人が悪人と知らされたことが獲信である」というような、親鸞会教義が出てきます。

私が過去親鸞会で話を聞いていたときも、ほとんど「仏願の生起」の内容でした。阿弥陀仏がどのように救って下さるのかという、南無阿弥陀仏について聞いたことはほとんどありませんでした。

「仏願の生起本末を聞け」と言われる親鸞聖人に対して、「仏願の生起」しか話をしない高森会長です。聞く側が、どれだけ真剣に聞いてもわからないのは当然です。聞いている人の聞き方が悪いのではありません。話をしている内容が、話半分だからです。