その一さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
念仏を無心に唱え続けることである種のトランス状態、忘我状態をひきおこすなら、念仏に期待する心もないので自力念仏とは言えないのではありませんか?(その一さんのコメント)
何も考える状態がなくなった状態は、確かに何かを期待する心もありません。しかし、念仏を称えることが、私が行う行という前提ならば、やはり自力の念仏です。
また、忘我状態になったとしても、それが続かないならば、「定散心雑する」念仏ですから、これも自力念仏となります。
悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。(教行信証化土巻・浄土真宗聖典(註釈版)P412)
と化土巻に言われています。
本願を聞いて疑いない、無疑心は、トランス状態、忘我状態とは異なります。死ぬまで煩悩は変わらないので、いろいろなことを考えます。念仏を称えているときでもいろいろと考えます。ただ、本願を聞いて疑いないだけで、他には何も変わりません。