安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「仏願の生起を本から末に聞く」と「仏願の生起本末を聞く」はどう違うのですか?(頂いた質問)

テレビ座談会で高森会長が「仏願の生起を本から末に聞く」と言っていましたが、「仏願の生起本末を聞く」と具体的にどう違うのでしょうか?(頂いた質問)

「仏願の生起を本から末に聞く」は、仏願の生起だけを聞くということです。
「仏願の生起本末を聞く」は、仏願の生起本末、なぜ本願を起こされたのか、その結果どういう本願を起こされたのか、どうやって私を救おうとされているのかを聞くということです。

具体的にテレビ座談会では、御文章2帖目8通を根拠に話をしていました。しかし、御文章2帖目8通といっても、全部を解説するわけではなく、仏願の生起の部分しか話をしません。

それ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、むなしくみな十方三世の諸仏の悲願にもれて、すてはてられたるわれらごときの凡夫なり。(御文章2帖目8通・本師本仏)

罪が重く、十方三世の諸仏も助けることはできないと見捨てられたのが私の姿であると書かれたこの部分は、阿弥陀仏の本願の「生起」に当たる部分です。
自らの力では生死を離れることが出来ないこの私が、本願を起こされた生起となったものです。
しかし、ここで話が終わってしまっては「あなたは自分の力では救われない者です」というだけの話で、何の救いもありません。

親鸞会では「真実を知るものは幸いなり」と、「親鸞学徒信条」に言っています。自力無功や罪悪深重は、言葉をかえれば機の真実ですから、真実といえないこともありません。しかし。それを知ることが「幸い」でしょうか?「お前は救われない」とだけ聞いて喜ぶ人はありません。
親鸞聖人が言われる「真実」は、阿弥陀仏の本願のことです。阿弥陀仏の本願は、自らの力では生死を離れることが出来ない者を、あわれに思われて、建てられました。その結果、南無阿弥陀仏一つで救うと現在呼びかけられています。これが、「本末」です。

どんな者でも救って下さる真実の救いの法が真実です。

御文章2帖目8通は、以下の部分までで一文となります。「すてはてられたるわれらごときの凡夫なり」で終わってはいません。

しかればここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏として、いまのごときの諸仏にすてられたる末代不善の凡夫、五障・三従の女人をば、弥陀にかぎりてわれひとりたすけんといふ超世の大願をおこして、われら一切衆生を平等にすくはんと誓ひたまひて、無上の誓願をおこして、すでに阿弥陀仏と成りましましけり。この如来をひとすぢにたのみたてまつらずは、末代の凡夫、極楽に往生するみち、ふたつもみつもあるべからざるものなり。(御文章2帖目8通・本師本仏)

この阿弥陀如来によらねば、極楽に往生する道はないぞといわれています。
では、どうすれば良いのですか?とその後は続きますが、御文章の続きから、抜粋しますと

弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なれば(御文章2帖目8通・本師本仏)

といわれています。

仏願の生起本末とは、御文章に書かれているように、阿弥陀仏がなぜ本願を建てられたのか、そしてどんな本願を建てられて、私をどのように救って下さるのかということです。
「お前は助からない者」とだけ聞くことを「生起本末を聞く」とはいいません。

本来の意味で仏願の生起本末を聞いて疑いないのが信心です。
生起を知ってからでなければ、本末は聞けないというように分離したものではありません。ですから、自分は生起がわからない、罪悪深重と思えないから、本末は聞く資格がないというように考えるのは大変な誤りです。自らの手で、救いの法を遮っている状態です。

すべて南無阿弥陀仏となって働いて下さいますので、南無阿弥陀仏を聞く一つです。生起と本末は分けられるものではありません。