安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「善を実行して初めて、善のできない自己を知らされこそのそのままの救いではありませんか?」と信罪福心について

S会会員わりとからむなwさんからコメントを頂きました。有難うございました。

S会会員わりとからむなw 2012/01/08 11:09
善を実行して初めて、善のできない自己を知らされこそのそのままの救いではありませんか?
善をしない前は、自分には善ができると自惚れている故、「そのまま」と仰せられても計らいを為してしまうというのが自力の実態だと思いますが。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120107/1325879904#c1325988595

すでに幹部会員歴数十年さんがコメントに書かれていることで、S会会員わりとからむなwさんも議論を打ち切られたようですが、最初のコメントの内容はよく質問される内容なのでここに書きます。

最初の「善を実行して初めて、善のできない自己を知らされこそのそのままの救いではありませんか?」については、そういうものは「そのままの救い」と言いません。条件付きのそのままになるので、そのままの救いになりません。
また「善を実行して初めて、善のできない自己を知らされ」たことが、自力の心が晴れたこととイコールという前提で書かれているので、その前提もまた間違いです。
次の「善をしない前は、自分には善ができると自惚れている故、「そのまま」と仰せられても計らいを為してしまうというのが自力の実態だと思いますが。」についてですが、善ができるできない以前に、「人間の善」は往生の役に立たないと教えられたのが親鸞聖人です。

「自分に善ができるかできないか」「善のできる自己と知らされているか知らされていないか」「自惚れているか自惚れていないか」は、どれも自らの救いを、自らの問題として考えているからでてくる言葉だと思います。


そのような考えを自力の心ともいいますが、信罪福心とも言われます。

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。(教行信証化土巻・浄土真宗聖典(註釈版)P399)

http://goo.gl/jVyTt

この「罪福を信ずる心」が、信罪福心です。罪福とは、結果の上からいったことで、因からいえば罪は悪、福は善になります。自らの善悪の行為の結果が福や罪を生ずると信じる心です。

別の言葉でいえば、自分が救われないのはなぜかということを自己の中で問題にするのが「信罪」の心です。どうすれば自分は救われるのかということを自己の中にあると考えるのが「信福」の心です。
この信罪福心をもったまま本願を聞こうとする人は浄土往生できないと、誡疑讃に度々親鸞聖人は書かれています。


なぜ、信罪福心をもったままではいけないのかといえば、仏願の生起本末と合わないからです。
仏願の「生起」とは、なぜ阿弥陀仏が本願を建てられたのかということです。それについて歎異抄9章から、引用します。

しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。( 歎異抄9章・浄土真宗聖典(註釈版)P837)

http://goo.gl/Ul53s

阿弥陀仏がすでに煩悩具足の私だとご覧になって、大慈悲をもって本願を建てられました。私がなぜ救われないのか(信罪の心)であれこれ考えていることは、阿弥陀仏が本願を建てるさいにすでにご存知のことです。「善のできない自己としらされていないからではないか」「自惚れているからではないか」とあれこれ考えることは、すでに本願の上に阿弥陀仏が私より先手をうって考えられたことです。


次に仏願の「本末」は、阿弥陀仏が煩悩具足の私を救おうと五劫思惟の願と兆載永劫の行をなされた、その願行とその結果成就した南無阿弥陀仏を言われます。ですから、「どうすれば私は救われるか(信罪の心)」という問題も、すでに阿弥陀仏が私より先手を打って解決されているのです。

発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版)P170)

http://goo.gl/zaUwW

私が浄土往生するための行は、阿弥陀如来がすでに願いをおこされて私に与えてくださるものです。ここで「如来すでに発願して」と仰っているように、阿弥陀仏の本願はすでに「衆生の行を廻施したまふ」ことになっております。


このように阿弥陀仏の本願の上ですでに、「なぜ私が助からないのか」とか「どうすれば浄土往生できるのか」という問題は解決が済んでいます。その本願の上での問題を、自分の問題として一生懸命取り組んでいるのが信罪福心です。結果として、阿弥陀仏の本願をはねつけていることになるので、自力の心と言われます。

「こうしなければ救われない」とか、「こうすれば救われるだろう」という問題は、私の問題ではありません。阿弥陀仏の本願の上ですでに先手を打ってあることですから、ただ今救うの本願を、そのままただ今聞いて下さい。