安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心決定するとはただ何も考えず念仏を称えていることなのでしょうか?(頂いた質問)

信心決定するとは、ただ何も考えずに念仏を称えていることなのでしょうか?(頂いた質問)

念仏を「ただ何も考えず」称えるというと、「無心になればよい」ということになってしまいます。ただ無心に念仏するというのは、定心念仏と同じになり、これも自力の念仏です。
念仏する心の有様を問題にするのは、「こういう心で称えた念仏なら功徳があるだろう」と、自分が称えた念仏の功徳をあてにしています。それは信心ではありません。

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仏智不思議をうたがひて 善本・徳本*1たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり(正像末和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P612)

念仏に私が無心になるとか、回数をこれだけ称えるといったものを付け加えるのは、「仏智の不思議をうたがって」いるからです。
南無阿弥陀仏は、それ一つで働いて下さる、阿弥陀仏のお働きです。こちらから、「無心になって」「○○という気持ちで」というものを付け加えず、そのまま聞いたのが信心です。

自分の行いでない以上は、念仏に何かを加える必要はありません。そのまま働いて下さるので、「何も考えなければ」「何も考えずに称えよう」と思う必要もありません。

*1:名号は善根、功徳の本であると信じ、念仏の功をつんで往生しようとする自力念仏の人。