安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「何もすることがないのなら待っているしかないのでしょうか?」(頂いた質問)

阿弥陀仏は、常に私に向かって呼びかけられていると聞きましたが、そうすると私にすることは何も無くなってしまいます。ただ待っていればいいのでしょうか?(頂いた質問)

ただ待っているのでは、「いつか救われるだろう」という安楽椅子に腰掛けているような状態です。

「阿弥陀仏が常に呼びかけている」と本当に思われるのならば、「待つ」必要はありません。「待つ」という言葉は、まだ来ていないものを待ち受けていること、来るまでの時間を過ごすことをいいます。
「友達を待つ」といえば、まだ友達は来ていないことになります。すでに来ている友達に対して「友達を待っている」とはいいません。阿弥陀仏は本願を成就されて以来ずっと呼びかけられていますので、呼びかけを待つことはいりません。


二河白道の譬えでは、このように呼びかけておられます。

また西の岸の上に、人ありて喚ばひて*1いはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(教行信証信巻より・浄土真宗聖典(註釈版)P224 ・法蔵館の真宗聖典P330.4)

「喚ばふ」とは、呼び続けているということです。ずっと昔から、私が仏法を聞こうと思う前から呼び続けておられるのが阿弥陀仏です。
それも、「汝」と、私を名指しで呼び続けおられるのです。どこかの誰かを助けようと呼び続けているのではありません。私一人にめがけて呼びかけられると言うことは、阿弥陀仏の方から私に向き合って、私に応じて救って下さると言うことです。
それが「ただちに来たれ」ということです。「もう少し○○になってから助ける」ではありません。


その呼びかけが南無阿弥陀仏ですから、待つのではなく、南無阿弥陀仏をそのまま聞いて救われて下さい。待ってて下さいという本願ではなく、聞いて下さいと名告られているのが本願の名号です。

*1:「よばふ」は呼び続けるの意。