安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏の南無は現代語訳すると「おまかせする」になると聞きます。ではこのおまかせするというのはどういう構図でしょうか?」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-より

南無阿弥陀仏の南無は現代語訳すると「おまかせする」になると聞きます。 ではこのおまかせするというのは、 | Peing -質問箱-

質問箱には以下のように書きました。

おまかせするについては、
(4)の「おまかせするということに、私の能動性はない。ただ受け入れるだけ。」が一番近いと思います。

これに加えて書きます。

質問箱には他のものについて言及しませんでした。それぞれについて書きます。

「1.私が阿弥陀様に向かっておまかせする。すると阿弥陀様が助けて下さる。」について

これは、私が阿弥陀仏にお願いをすると、それに応じて阿弥陀仏が助けて下さるというのと同じ形になります。
これは自力回向という形になるので違います。

「2.私が阿弥陀様におまかせするのとお助けは同時。」について

これは同時ということになると、阿弥陀仏のお助けと私のまかせるが五分五分という形になります。五分五分の救いではないのでこれも違います。

「3.もうお助けは私に届いている、後は私がおまかせするだけ。」について

阿弥陀仏の救いは先手で届いているのでよいように思います。ただ、「私に届いている」「後は私が」なりますと、時間がかかるようにも思えます。すでに届いているお助けをそのまま聞き入れるということです。

「4.おまかせするということに、私の能動性はない。ただ受け入れるだけ。」について

自分の力の入る余地はないという意味では、この表現が一番近いかと思います。
能動性という意味では、常に働いて下さっているのは南無阿弥陀仏であって、私が手を加えることはありません。「何もしないようにしたら助かる」という計らいもいりません。

南無阿弥陀仏の「南無」は、「帰命」と漢文で訳されました。その「帰命」について

ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。(教行信証・行文類・浄土真宗聖典註釈版P170)

と親鸞聖人は言われています。

その本願招喚の勅命に、阿弥陀仏の仰せに従う事をまた帰命といわれています。

帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり。(尊号真像銘文・浄土真宗聖典註釈版P656)

南無阿弥陀仏は、すでに届けられているといっても、宅配便の置き配のようなものではありません。私に向かって常にただ今助けると喚ばれている声であり働きです。その勅命にしたがうことが、南無でありおまかせするという意味です。