私が救われるのは、阿弥陀様のお一人働きによると、よく聞かされております。 | Peing -質問箱-
これについて質問箱に以下のように書きました。
言い方は色々ありますが、「自分の有り様を気にせず、助ける法に向かう」ということになります。
これに加えて書きます。
質問箱にあった
こちらのやることはないと言われると、(もちろんお念仏や聴聞はいたしますが)イメージ的には“ただオロオロして救われることを待っている”といった感じになります。
私が救われるのは、阿弥陀様のお一人働きによると、よく聞かされております。 | Peing -質問箱-
についてですが、
「こちらのやることはない」というのは、確かに仰る通りです。
ただ、親鸞聖人はご和讃で「信ずべし」とか「帰命せよ*1」と繰り返し書かれています。
(1)
弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり(正像末和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P600)
ですから、質問された方が「すること」というのは、「信ずべし」「帰命せよ」とのお勧めにしたがって、「信ずる」「帰命する」ことです。
そこで、「帰命」について、浄土和讃に親鸞聖人は「よりたのむ。おおせにしたがう。めしにかなうというなり。」と左訓に書かれています。
「おおせにしたがう」ということは、すでに「仰せ」があるから、それに従うということです。
「救われるのを待っている」という考えは、「仰せ」がまだ届いていない状態だということになります。丁度、病院の待合室で名前を呼ばれるのを待っている状態です。私も先日、眼鏡を作り替えるために病院へ行きました。そこは人気の病院で初診の私は、受け付けから1時間以上待つ事になりました。しかし、受け付けをした以上は、呼ばれるのを待つ以外にないのでひたすら待っていました。
ただ病院の受け付けなら、必ず呼ばれるので待っていればいいのですが、「オロオロして救われるのを待つ」というのは、病院と違って私の命という残された時間がいつ終わるか分からないからです。「まだ呼ばれないのか」と気をもんでいる状態かと思います。
しかし、親鸞聖人は「いつかくる仰せにしたがえ」とは言われていません。既に喚ばれている仰せに従いなさいと言われていまず。
帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり(尊号真像銘文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P656)
「釈迦・弥陀の二尊の勅命」は、「釈迦が衆生に浄土往生をすすめ(発遣)、阿弥陀仏が衆生を浄土へ来たれと招きよぶこと(招喚)」です。
お釈迦さまは、待てとは言われず「浄土往生せよ」と勧めておられます。阿弥陀仏は、「直ちに来れ」と招いておられます。その招喚の勅命が、今の南無阿弥陀仏です。
今、称え聞いている南無阿弥陀仏が、阿弥陀仏の招喚の勅命であるということからいえば、私は「救われることを待っている」のではなく、「勅命にしたがう」のが、「阿弥陀仏をたのむ」ということです。「阿弥陀様のたのみ方」というのは、特にありませんが、「勅命にしたがう」のが阿弥陀仏をたのむということです。
これまでも、今も称え聞いている南無阿弥陀仏が、私を救うとの仰せです。その仰せが私を救う働きです。勅命の後に救いがあるのではありません。仰せがそのまま救いです。
*1:浄土和讃 - WikiArc ・讃阿弥陀仏偈和讃