安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の本願は「縁のある、ほんの一部の人間との約束」ですか?(リクガメさんのコメント)

リクガメさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
リクガメさんのコメントに、maryさんからもコメントを頂きました。有り難うございました。

いつも拝見しています。阿弥陀仏の救いは「今」なのでしょうか。私の姉は生まれてすぐに死にました。おばあさんも、もう認知症で何もわかりません。また、この度の地震で存命の内に救われた人はどれだけいたのでしょうか。皆、阿弥陀仏の存在さえ知らなかったのではないでしょうか。子供のころ、犬を見て、幸せになって欲しいと思ったことがありました。私のペットのカメも十方衆生に入っているのですよね。十方衆生とは「われわれは人間だから→すべての人」と、どこかで聞いたことがあります。人間だからといっても今生で救われないということは、十方衆生とはいっても、救われずに死んでゆく現実があることから、縁のある、ほんの一部の人間との約束で、ほとんどの人は含まれていないような気がしてなりません(阿弥陀仏がわからないという意味では私も動物と同じで、十方衆生とはいわれてるが、現実的には救われる対象には入っていないような気がします)。死んだ後、遠い遠い未来の「今」の救いの人もあり、いつかは十方衆生は救われるというのなら理解はできますが・・・・。最近こんなことばかり考えています。(リクガメさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110404/1301864832#c1302003975

いくつかお尋ね頂きましたので、順番に書いていきます。

「阿弥陀仏の救いは「今」なのでしょうか。」

阿弥陀仏の救いは、いつでも今です。この文章を読まれているときが「今」です。未来のいつか「イマ」という時系列上のポイントがあるのではありません。
次に頂いた「この度の地震で存命の内に救われた人はどれだけいたのでしょうか。」については、それは分かりません。亡くなられた方も、地震と津波で命が助かった方も、何とか阿弥陀仏の本願を聞いて浄土往生して頂きたいと思っています。

「縁のある、ほんの一部の人間との約束で、ほとんどの人は含まれていないような気がしてなりません」

阿弥陀仏の本願は、一部の人間との約束ではありません。なぜなら「無縁の慈悲」をもって起こされた本願だからです。ペットのカメも十方衆生にもちろん入ります。

仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈*1をもつてもろもろの衆生を摂す。(観無量寿経・浄土真宗聖典(註釈版)P102・法蔵館の真宗聖典P146.下段終わりから3行目)

観無量寿経には、仏心とは大慈悲のことだといわれています。大慈悲とは無縁の慈悲のことです。

人間の起こす慈悲は、仏様の大慈悲に対して小慈悲、無縁の慈悲に対して衆生縁の慈悲といわれます。
人間の考える慈悲は、縁のある人に対して起こすものです。身内や知人、今回の震災を報道で知ったとき「同じ人間として」との思いから起こす慈悲です。

それに対して阿弥陀仏の大慈悲は、無縁の慈悲です。知っているとか知っていないとか、善人とか悪人とか、○○だからという差別を一切つけられない慈悲です。人間だから動物だからと言う差別もありません。

私の目線から、人間の慈悲の観点から阿弥陀仏の本願を考えると次のような疑問が起きてきます。

  • なぜ助けて下さるのか分からない
    • 法蔵菩薩となって本願を建てられたときに、私のことを知っておられたのだろうか?
    • 十方衆生といわれても、私のことは知らなかったはずだ。私は阿弥陀仏が仏になられた十劫の昔のことは分からない。
    • 私自身も阿弥陀仏のことを知らなかったのに、どうして阿弥陀仏は助けて下さると呼びかけておられるのか?

ちょっと考えて見ると、仏様に向かって言えるような立派な善も、菩提心も起こしたことがない私に対してどうして本願を起こされたのかが分からなくなると思います。
そこで「ほんの一部の人間との約束」ではないかと疑問を起こされるのも、当然だと思います。

私から見れば、阿弥陀仏は縁もゆかりもない方です。しかし、どうしてだか分からないけれども慈悲を起こされて救って下さるので阿弥陀仏の大慈悲は「無縁の慈悲」なのです。

仏法を聞いている人は縁があり、仏法聞いていない人は縁がないと、人間の目から見た縁の有無で助かるとか助からないというのは、間違いです。
人間の目で見てわかる縁の有無で慈悲があったり無かったりするのは、小慈悲であり衆生縁の慈悲です。

「全く知らない、顔も見たことがない」「助けて欲しいとも思わない」と私が考えていたとしても、「汝を助ける」と大慈悲を起こして下さるのが阿弥陀仏の大慈悲です。無縁の慈悲です。

人間世界では、縁がないと助けられないことが多いです。しかし、阿弥陀仏の大慈悲は無縁の慈悲です。私の方からみて縁がないとしか思えなくても、法蔵菩薩として願を起こされるときから大慈悲をかけて下さっているのです。

まとめ

この無縁の慈悲が大慈悲心ですから、「もう少し縁が深まってから助かる」ということはありません。「縁のある一部の人を助ける本願」ではありません。
実感として、阿弥陀仏がどれだけ遠くに感じられても、南無阿弥陀仏が他の人に向かっているように感じられても、今の私をただ今救って下さるのが南無阿弥陀仏です。

*1:無縁の慈・・平等にして無差別な仏の大慈悲