安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

雑行を捨てるというのはどういうことでしょうか?(頂いた質問)

御文章を読んでいると、雑行を捨てよとありますが、どうやって捨てればよいのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏は第18願に報いて現れた報仏ですから、こちらから加える行はありません。
それについて御文章では以下のように書かれています。

南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。(御文章五帖目八通・五劫思惟

阿弥陀仏は「雑行を捨てて、一向一心に弥陀をたのむ衆生を救う」という第18願を建てられて、南無阿弥陀仏となられました。
雑行を捨てるというのは、左図のように阿弥陀仏の本願に欠けている部分を自分で埋めようとする心を捨てるということです。
自分が救われないのは、何かが足りないからだと考えて、その空白を善や念仏を称えた功徳で埋めようとするのが雑行です。
「何かを足さなければならないのではないか」「自分に欠けているものがあるから阿弥陀仏は助けて下さらないのではないか」との考えは間違いです。そして、欠けている部分を一生懸命埋めようとするのも間違いです。

自分で何かを足さないと助けられない本願であったら、本願そのものがそのまま救う本願ではないということになります。
御文章に「南無阿弥陀仏と成りまします」と言われています。五劫思惟の願と行によってすでに南無阿弥陀仏となって下さっているのが阿弥陀仏です。私を助けるために、欠けているものは一つもありません。

欠けている部分を想定し、雑行を加えて何とかしようとしても絶対に、空白は埋まりません。


なぜなら南無阿弥陀仏に加えるものは何も無いからです。油で一杯になっている器に水を加えようとしても、水は油の中に一滴も入れることはできません。混ざることもありません。
南無阿弥陀仏を油にたとえると、自力の信心、自力の行という水は一滴も入れることは出来ません。それは捨てねばならないので、雑行を捨てよと言われています。

元々欠けていないところに、何かを加えようとするから絶対に入りません。何かを加えようとして出来ないと悩むよりも、早く南無阿弥陀仏を聞いて救われて下さい。