安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

17願を建てられたこころについて(唯信鈔と唯信鈔文意より)

前回の補足として、書きます。
前回エントリーの唯信鈔の続きにはこう書かれています。

しからずは、仏の御こころに名誉をねがふべからず。諸仏にほめられてなにの要かあらん。
「如来尊号甚分明 十方世界普流行
 但有称名皆得往 観音勢至自来迎」(五会法事讃)
といへる、このこころか。(唯信鈔)

17願を建てられたのは、阿弥陀仏が諸仏に褒められたいという名誉を願われたからではありません。この五会法事讃に言われていることは、そのこころを書かれているのだろうと書かれています。

上記の、五会法事讃について、親鸞聖人は唯信鈔文意で解説をされています。解説そのものはブログに載せるには長文なので、一部引用します。

「如来尊号甚分明」について

如来とは、阿弥陀如来。尊号とは南無阿弥陀仏のことです。甚は、大変優れたということです。

「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこころなり、「明」はあきらかなりといふ、十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典(註釈版)P700

南無阿弥陀仏の名号は、「よろづの衆生ごとにわかつ」とあります。一人ひとりを救うために、一人ひとりに南無阿弥陀仏は分かれて働いて下さるということです。
確かに「阿弥陀仏の喚び声」と聞くと、大勢の人に向かってマイクを使って呼びかけられているようにも思えます。しかし、それは違います。一人ひとりに南無阿弥陀仏は分かれて呼びかけて下さるのです。

「十方世界普流行」について

「十方世界普」は、その南無阿弥陀仏は、十方世界に普く広まって下さいます。

「流行」は十方微塵世界にあまねくひろまりて、すすめ行ぜしめたまふなり。(同上)

この南無弥陀仏が、届かないところはありません。そして、一人ひとりに南無阿弥陀仏呼びかけ、念仏させようと働いて下さっています。

しかれば大小の聖人*1・善悪の凡夫、みなともに自力の智慧をもつては大涅槃にいたることなければ、無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆゑに、この仏の智願海*2にすすめ入れたまふなり。(同上)

大乗の聖者も、小乗の聖者も、善人も悪人も、自らの智慧では仏のさとりをひらくことはできません。
そこで、阿弥陀仏の智慧によって現れた南無阿弥陀仏が、私を浄土往生させ仏にして下さるのです。
阿弥陀仏のことを、無碍光仏ともいわれます。無碍光とは、一切の障害も障りとならず照らして下さる働きです。そこで、迷いを打ち破る智慧の光そのものが、無碍光仏の御かたちといわれます。
色も形もない仏の智慧が、具体的に私に働いて下さる相が南無阿弥陀仏です。なぜ私に働いて下さるのかといえば、「自力の智慧をもっては大涅槃にいたることなければ」だからです。

そのために十方微塵世界どこでも働いて下さるのが、南無阿弥陀仏です。

それを私に教えて下さったのがお釈迦様です。お釈迦様が教えられたところの南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の智慧が私を救うために名告られているお姿です。私はそれを、疑いなく聞く一つであって、それ以上に何かを加えなさいとは、阿弥陀仏の本願にも、お釈迦さまの教えにも、親鸞聖人の教えにもありません。

*1:大乗の聖者と小乗の聖者

*2:阿弥陀仏の智慧からおこった本願(智願)の広大で深遠な徳を海に喩えていう。