安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「まず、煩悩具足の凡夫と知らねばならない」のでしょうか?(4月29日テレビ座談会より)

4月29日に、親鸞会主催テレビ座談会が行われました。参加者より情報をいただきましたので、気になったところを紹介します。

では私たちは、親鸞聖人は比叡山におられたときは煩悩と戦いをされたのだけれど、私たちが阿弥陀仏の救いを求めるときに、どのように煩悩と向き合っていけばよいのか。そういう質問だったと思う。
それにはまず、煩悩具足と知らなければならない。なぜなら、阿弥陀仏の本願は煩悩具足の凡夫を助けるという約束ですから、阿弥陀仏はどういうものを助けるといわれているのか、十方衆生。十方衆生はすべての人間。全ての人間は煩悩具足の凡夫。阿弥陀仏の本願は煩悩具足のものを助けるというお約束。
助けてもらう私たちが、全然煩悩具足のものと思っていない。たまには欲も起こすけれどもそんなものばかりではないですわ。そんな心しかない。
煩悩具足と言われても、そんな話は聞かれません。そんな心がある。

そこで、まず、煩悩具足のものと見抜いて本願を立てておられるのですから、うぬぼれているので、まず煩悩具足のものと阿弥陀仏は見抜いておられるのやけれどもそんなこときかれません。それをこちらがうぬぼれているのですから、煩悩具足だと言うことをまず知らなければならない。ということです。

そういうことです。これが阿弥陀仏の救いに向かっている私たちの煩悩に対しての向かい方です。
煩悩具足の凡夫でしたと自己をを知らされるまで、それには聞かねばなりませんから。
何を聞くのか、阿弥陀仏のお目当ては煩悩具足の私だと聞かせて頂く。(頂いた情報より抜粋:平成23年4月29日親鸞会主催テレビ座談会より太字は追加)

阿弥陀仏に救われるには「まず」と何度も繰り返して、条件付けをしています。
加えて、煩悩具足と知らねば救われないというより、救われる救われない以前の問題だから「まず」と繰り返しています。
阿弥陀仏の本願を聞くというのは、仏願の生起本末を聞くことです。しかし、このテレビ座談会では、まず「煩悩具足の私」の部分だけ聞くことを勧めています。

  1. まず「煩悩具足の私」とわかるまで聞く。
  2. 「そんな私をどうやって阿弥陀仏が救って下されるのか」を聞く。

この順番を通らねばならないならば、20年、30年聞いても間に合わないのは当然です。
阿弥陀仏はただ今救うと呼びかけられています。「まず、煩悩具足と知れ」「そう思えないうぬぼれを正せ」とはいわれていません。