安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

高森会長の話に救われる法の話がほとんどないたった1つの理由(頂いた質問)

親鸞会の法話(3月6日学生大会)に行ってきました。演題は「後生の一大事」で、一日の話の大半は人間の実相の掛け軸の内容でした。最後の5分くらいに、阿弥陀仏の本願で救われるとだけ話があり、そこで終わりました。
明日をも知れない命と話がある一方、救われる法についてほとんど話がないことについては疑問があります。今までも、詳しい話はまた次回と聞かされてそれ以上話が進まないことが多かったと思います。私は、話をしている内容が正しいかどうかまではわかりませんが、こういう話を聞いていくことが本当に救いにつながっているのかと疑問に思いますが、どう思われますか?(頂いた質問)

高森会長が「救いの法」を詳しく話をしない理由はただ一つ、参詣者に次も来てもらうためです。

親鸞会の法話で高森会長が「話をしている部分」が「正しいか間違いか」については、いろいろと議論もあり、また批判もいろいろとされています。
今回の内容については、「”無常の虎”とは何?: 飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」で取り上げられています。

話をしている内容にもいろいろと問題があるのですが、それ以上に注目すべき部分は「何を話していないか」ということです。「話をしていない部分」は、話をしていないのですから直接批判されることはありません。
仰るとおり「救われる法」についてほとんど話をしないのが、親鸞会の特徴です。
一日法話や座談会に参加し、3時間近く話があってもなお「救われる法」について話がないのは、確信犯です。
以下は、私が親鸞会の講師であったころに、高森会長が講師部対象の講義で何回か話をしていたことです。

質問者「どういう話し方をしたら、参詣者が会長先生のように増えるのでしょうか?」
会長「1時間話をしたら、50分か55分までは誰が聞いてもわかるような話をする。残り5分で、相手に疑問が残るような話をする。そうすると、聞いた相手は前の50分まではよくわかったけれども、残りのあの話はなんだったんだろう。もう一回聞きに行ったら分かるかもしれない。そう思って次も話を聞きに来る。ワシはそのように話をしてきたから、参詣者は常に右肩上がりだった」

当時は、話の技術としてそういうものかと思っていましたが、それは大変誤りであったと後で気がつきました。
蓮如上人御一代記聞書には、それと逆のことを言われています。

一 仰せにいはく、仏法をばさしよせて*1いへいへと仰せられ候ふ。法敬に対し仰せられ候ふ。信心・安心といへば、愚痴のものは文字もしらぬなり。信心・安心などいへば、別のやうにも思ふなり。ただ凡夫の仏に成ることををしふべし。後生たすけたまへと弥陀をたのめといふべし。なにたる愚痴の衆生なりとも、聞きて信をとるべし。当流*2には、これよりほかの法門はなきなりと仰せられ候ふ。『安心決定鈔』(本)にいはく、「浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるのほかにはなきなり」といへり。しかれば、御文には「一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。これすなはち第十八の念仏往生の誓願の意なり」*3といへり。(御一代記聞書185・浄土真宗聖典(註釈版)P1289)

  • 現代語訳
  • 蓮如上人は、「仏法は、簡潔にわかりやすく説きなさい」と仰せになりました。
  • また、法敬坊に対して、「信心・安心といっても、聞く人の多くは文字も知らないし、また、信心・安心などというと別のもののようにも思ってしまう。
  • だから、わたしたちのような凡夫が弥陀のお力で仏になるということだけを教えなさい。
  • 仰せのままに浄土に往生させてくださいと弥陀を信じておまかせすることを勧めなさい。
  • そうすれば、どんな人でもそれを聞いて信心を得るであろう。
  • 浄土真宗には、これ以外の教えはないのである」と仰せになりました。
  • 『安心決定鈔』には、「浄土のみ教えは、第十八願をしっかりと心得る以外にはない」とあります。
  • ですから、上人は、御文章に、「仰せのままにお救いくださいと疑いなく仏におまかせするものを、たとえ罪はどれほど深くても、弥陀如来は必ずお救いくださるのである。
  • これが第十八願の念仏往生の誓願の心である」とお示しくださっているのです。

蓮如上人は、仏法は短くまとめて、簡潔に言いなさいと言われています。引き延ばしをして、次に人が来るような話をせよとは言われていません。
短くまとめて何を言えと言われているのかと言えば「後生たすけたまへと弥陀をたのめ」です。また「浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるのほかにはなきなり」とあります。
ただ今救うという第十八願一つを聞くのが、仏法を聞くことであり、話をする側もそうでなければなりません。

常に「救いの法」を詳しく話をしない理由はただ一つ、参詣者に次も来てもらうためです。しかし、それでは聞く方はいつまでたっても「後生たすけたまへと弥陀をたのめ」の内容を聞くことができません。
「高森会長はいつも正しく説かれている」という人はありますが、それは「話をしている部分」を正しいと思っているだけのことです。視点を変えて「何を話していないか」を考えてみられたらよいと思います。
現在、第十八願の話はしていないと分かられると思います。「八万四千の法門」や「浄土方便の善」ばかりです。*4

*1:さしよせて・・短くまとめて。簡潔にわかりやすくして。

*2:当流・・浄土真宗を指す。

*3:一心一向に・・「御文章」5帖目1通

*4:弥陀の方便なくして真実へは入れぬ|親鸞会